「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫⑦ ついに明かされた出生の秘密と「父の遺した手紙」
目のまへにこの世をそむく君よりもよそにわかるる魂(たま)ぞ悲しき (目の前でこの世を捨てて尼になられたあなたよりも、あなたと別れ、この世を去っていく私のたましいのほうが悲しいのです) また、端のほうに、 「おめでたくお生まれになったという幼子のことも、心配なことは何もありませんが、 命あらばそれとも見まし人知れず岩根(いはね)にとめし松の生(お)ひ末(すゑ) (生きていられればよそながら我が子として見ることもできるでしょうに。人知れず岩根に残した松の生い先を)」
■秘密を知ったと、どうして言えようか 途中で書きやめたように、筆跡もずいぶん乱れていて、「小侍従の君に」とおもてに書きつけてある。紙魚(しみ)という虫の住処になって、紙は古びてかび臭くなってしまっているけれど、筆跡は消えないばかりか、たった今書いたかと思えるほどの言葉の数々が、こまごまとはっきりしているのを見るにつけても、中将は、なるほどこれが人目にでも触れたりしたら、と落ち着かず、またいたわしくも思える。
このようなことがこの世にまたとあろうかと、中将は心ひとつにますますもの思いが増え、宮中へ参上しなければと思いながらも出かける気になれない。母宮の元に行くと、まるでなんの屈託もなさそうに若々しい姿でお経を読んでいたが、決まり悪そうにそれを隠す。秘密を知ってしまったとどうしてこの母宮に知らせることができようか、と、いっさいを心にしまいこみ、中将はあれこれと思いをめぐらせている。 *小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
角田 光代 :小説家