イエメン、「幸福のアラビア」いつの日か(1) ~「忘れられた戦争」の実相を求めて~
難民として暮らすイエメン人に会いに行く
イエメンに関する取材を始めるにあたり、当初からジブチへ行こうと考えていた。「アフリカの角」地域に位置し、バブ・エル・マンデブ海峡を挟んでイエメンの対岸に位置するジブチには、多くのイエメン難民が暮らしていると事前の調べで分かったからだ。いきなり戦時下のイエメンに行くのはあまりにもハードルが高い。紛争地での取材経験やツテもほとんどなく、不安や恐怖心が大きかった。 少しでもイエメンの状況を知るために、イエメンから国外に逃れて難民として暮らしている人々に会い、彼らの身に何が起き、なぜ逃れてきたのかを聞く。そして、現在の彼らの暮らしを見ることで、イエメン国内で実際に何が起きているのか、戦争が人々に何をもたらしているのかをつかもうと思った。 2017年1月、ヨルダンでの海外ボランティアの任期を終えた後、未然に戦争の発生を抑止し、既に起きている戦争をいかに収束させるかといった平和構築の分野について学ぶプログラムに参加し、フィリピンの大学院で学んでいた。 しかし、大学院に入った時点で既に、卒業したらフリーの写真家として海外で戦争問題の取材をしようと心に決めていた。大学院で学ぶより早く取材活動を始めたいとの思いが強かったこともあり、途中で大学院をやめた。 そして早速、戦争問題の取材に乗り出した。まず手始めにしばらく暮らしていたフィリピン南部のミンダナオ島で起きていた内戦による避難民を取材。その後、今度はバングラデシュへ飛び、ミャンマーで弾圧を受け逃れてきたロヒンギャ難民を取材した。 そして、前々から気になっていたイエメンに関する取材をしようと、2年間暮らして慣れ親しんだ中東へ向かった。再びヨルダンの地を踏んだのは2017年10月。慣れ親しんだヨルダンを中東取材の拠点にしようと考えた。 ヨルダン国内にいる難民の中で、多数を占めるのはパレスチナ難民(200万人以上)、次いでシリア難民(60万人以上)。イエメン難民は約1万人と少数派だ。取材に協力してもらえそうな支援団体やツテはなかったが、ひとまず在ヨルダンのイエメン大使館を訪ね、職員の紹介でなんとか首都アンマンで難民として暮らすイエメン人家族を取材することができた。 翌11月には、当初から訪問予定だったジブチへ行き、難民キャンプの過酷な環境下で暮らすイエメン人達に会った。それから半年ほど経った2018年7月、韓国の済州島に500人以上のイエメン人がやってきているというニュースを耳にした。 「なぜイエメンから8000キロも離れた韓国に?」という素朴な疑問を抱いたのだが、この時はそれ以上の注意を向けることができなかった。そんな時、私がイエメン取材をしていたことを知る友人に「韓国にイエメン人が来ているのに取材にいかないのか?」と聞かれた。日本で生活を成り立たせるのにあくせくとしていていたこともあって、イエメンへの関心が低下していたことに気付きハッとした。すぐさま取材の準備を整え、済州島へ飛んだ。 一連のイエメン難民取材の中で印象に残っているのが、ヨルダンで取材したイエメン人男性一家だ。2011年の終わりに、イエメンの首都サナアから逃れてきて暮らしていた彼らは、当時まだ難民認定されておらず、受けられる支援は不十分だった。彼には妻と4人の子どもがいて、日雇いの仕事と息子の収入でなんとかやりくるする暮らしを送っていた。日々の食事もホブズ(アラブのパン)にジャガイモやトマトなど野菜中心で非常に質素だった。 そんな彼に、戦争が終わったらイエメンに帰りたいかとたずねたことがある。 「そんなことを考えたことはない。この戦争が終わるとは到底思えないから」 あきらめたような口調で彼は話した。 2011年、中東や北アフリカで広がった民主化運動「アラブの春」。この時、イエメンでも30年以上続いたサーレハ政権の独裁が終わり、その後、2012年2月にハーディ暫定政権が誕生した。しかし政情は安定しない。反政府勢力「アンサール・アッラー(以下、フーシ派)」がクーデターを起こし、首都サナアから暫定政府を追い出してしまう。以後、イエメン北西部は現在に至るまでフーシ派の支配下にある。 2015年3月には、フーシ派がイランの支援を受けていると見たサウジが、アラブ首長国連邦(以下、UAE)、エジプト、ヨルダンなどの国々を率いて連合軍を組織して、内戦へ介入。暫定政府を支援し、フーシ派に対して空爆を行い、内戦はいつしかサウジとイランの代理戦争の様相を呈していく。 当のイエメン人にしても、泥沼化する戦争が今後どうなるのか全く読めないのだ。「終わりが見えない戦争」とはどういうものなのだろうか? 当事者の話を聞くだけでは足りない。やはり自分で直接行って確かめたい。そんな思いが頭をもたげて来た。自分の中にあった紛争地取材に対する不安や恐怖感を、「いつかイエメンに直接足を運び、自分の目で現地の人々の暮らしや戦争の実態を確かめたい」という強い気持ちが上回っていくのが分かった。 中でも、私が特に自分の目で見たいと思ったのは、サウジをはじめとする連合軍の攻撃対象となっているフーシ派の支配地域、イエメン北西部だった。これまでに会った多くの難民がイエメン北西部出身であり、「空爆や戦闘、飢餓などに一番苦しんでいる地域だ」と何度も聞かされていたからだ。 ジブチでのイエメン難民取材の時にインタビューしたイエメン人一家。彼らはイエメンで戦闘に巻き込まれ、それを機にジブチの難民キャンプに逃れてきていた。家長の男性は戦闘で二人の子どもを殺され、家を破壊され、車を奪い取られたと語った。彼らは一体どの様な思いで故郷を後にし、難民として暮らしているのか。 どんなに取材やインタビューを重ねたところで、当事者の苦悩を頭で「理解」はできても、本当の意味で「共感」することはできない。戦争の実相を第三者に伝える上で、被害者の話や姿を通して伝えることはできても、そこに実感は伴っているかどうか自信を持てなかった。 日本の様に遠く離れた「平和」な国で暮らしているとなおさらだ。その感覚の「格差」を埋めるには直接現地へ行くしかない。