ある日を境に生き方のすべてを“パンク”にシフト。the原爆オナニーズTAYLOWと音楽、仲間、家族、地元
パンクしか聴かない。いや、聴けなくなっちゃった
噂のパンクがかかると知り、ラジオの前で待ち構えていたTAYLOWの耳に届いたセックス・ピストルズの『アナーキー・イン・ザ・UK』。最初の感想は“わけがわからない”というものだった。これまでのどんなロックとも違う、まったく切り離された新しい音楽と感じた。 「この感覚って、後追いだとどうしてもわかりづらいと思う。とにかく、想像していたのとは全然違いました。 ニューヨークのテレビジョンやリチャード・ヘル、パティ・スミス、ラモーンズなんかはすでに聴いていたけど、それとは全然違うと感じました。 セックス・ピストルズは“CHAOS”と書かれた腕章付きのセディショナリーズの服をよく着てたけど、まさにそれです。トランジスタラジオの小さなスピーカーから流れてくる混沌とした音に、頭をバカンって殴られたような感じ」 次の週、一人の友達が、『セックス・ピストルズって知ってる? どんな音?』と聞いてきた。TAYLOWは『大貫憲章のラジオで聴いたよ』と答え、次の日にはみんなを家に集め、録音したテープを聴かせた。 「そしたら『かっこいいー‼』ってなって、突然みんな“パンク”になっちゃった(笑)。それからはもう、パンクしか聴かない。いや、聴けなくなっちゃったんです。 76年はレッド・ツェッペリンの『プレゼンス』やレインボーの『ライジング』、エアロスミスの『ロックス』が出たりして、音楽業界的には色々あった年なんだけど、そんなものは全部どっかに吹っ飛んじゃった」 TAYLOW、18歳の秋である。
日本のパンクの萌芽をリアルタイムで体感
「日本のパンクは、1976年に紅蜥蜴(1972年結成。1978年にLIZARDと改名し、東京ロッカーズの一員として日本の初期パンクシーンを盛り上げた)を見たのが最初。東京の日劇(かつて東京・有楽町にあった日本劇場。1981年に閉館)でやった(内田)裕也さん主催のイベントで、ルージュやダウンタウンブギウギバンドも出てました。だけどやっぱり、紅蜥蜴が一際かっこよく見えました。 その2、3日後に近田春夫とハルヲフォンも見ました。ラモーンズとビート感覚がまったく一緒で、日本でパンクをやるとこういう風になるんだなと思った。そっから2年ぐらい、豊田からバスに乗って、東京でのハルヲフォンのライブを見にいってました」 国内のパンクの萌芽をリアルタイムで体験したTAYLOWは、1978年、さらなる衝撃を受けることになる。 「京大の西部講堂でやった東京ロッカーズの“ブランクジェネレーション”というイベントで、フリクションを見たんです。あれも本当に、セックス・ピストルズをラジオで聴いたときに匹敵するほどの衝撃でした。 フリクションと他のバンドの何がそんなに違ったかというと、ビートの感覚。ロックのビートって後ろ乗りで、人間を背中から押してくれる感じだけど、パンクのビートは、前のめりでトントン引っ張っていくんですよ。フリクションは多分、そういうビートの違いを、当時からよく分かっていたんですよね」 とことんパンクにのめり込んでいた大学生時代のTAYLOWは、1978年と1980年にイギリス・ロンドンへと赴く。 「旅費は全部、親が出してくれました。うちの親は『お前はバイトしたら、普通じゃない道に行くから、バイトはするな』っていう人。その代わり、東京だろうと京都だろうとロンドンだろうと、好きなところに行かせてやるって。 78年の最初のイギリスは観光旅行みたいなもんだったけど、80年に行ったときはライブを観るのを主な目的にしました。 いろいろ観たなかで、ワイヤーのライブが一番の衝撃でした。あの日のライブは、終わってからもしばらく頭が混乱するほどでした」