ある日を境に生き方のすべてを“パンク”にシフト。the原爆オナニーズTAYLOWと音楽、仲間、家族、地元
ロンドンのパンクスと愛知・豊田市のTAYLOW
ロンドンから帰ってきたTAYLOWは、現地で体感した生の“パンク”のすべてを地元の仲間へ伝えていく。 その頃のTAYLOWは、いでたちもパンクそのものだったのだそうだ。 「僕は当時、ちょっといい古着を結構持ってたんで、ロンドンでパンクをやってる人と同じような格好で、足から頭まで固めていました。 それは側から見ると、相当にパンクだったんでしょうね。『見て見て。あの子、パンクが歩いてる』って指さされてましたから(笑)。 全身パンクに染まってたけど、親はなんとも思ってなかったんじゃないかな。76年の段階では胸まであるような長髪だったのに、77年になると急にパンクっぽい超短髪にしたりしたけど、別に全然気にしない。 家で昼間にパンクのレコードを、ステレオのボリュームの針を“2時”の位置にして、大きな音でかけても大丈夫。まあ、子供に甘いんでしょうね」 強大な産業が存在する愛知県豊田市は、“中産階級のアッパー寄り”の家庭が多く、自分を含めてそんな家の子たちがパンクになっていたとTAYLOWは語る。 ロンドンの初期パンクシーンも、一般的に破壊的な印象を持たれるのとは裏腹に、実はアートスクールの学生や裕福な家庭の子供が、その自由な気風のもと始めたものである。 TAYLOWは無意識のうちに、自分と似た立ち位置にあるロンドンのパンクスに、相通ずる気概を感じていたのかもしれない。 「パンクというのは、ワールドミュージックをはじめ、多様なものをすべて吸収する、自由な音楽なんです。就職した80年以降は毎年、もらったボーナスを全部はたいてイギリスへ行きました。 その頃のイギリスは、行くたびに常に新しい波があって、それが全部、肌にぼんぼんぼんぼんぶつかってくる感覚があったんで」 そんな波を吸収したTAYLOWが、the原爆オナニーズのフロントマンとして登場するのは1982年になってからだった。 文中敬称略。以下、第3回へ続く。