ある日を境に生き方のすべてを“パンク”にシフト。the原爆オナニーズTAYLOWと音楽、仲間、家族、地元
the原爆オナニーズのTAYLOW#2
元「smart」編集長・佐藤誠二朗によるカルチャー・ノンフィクション連載「Don't trust under 50」。the原爆オナニーズのTAYLOWのストーリー第2回。今回は、地元で音楽好きな青春時代を送っていたTAYLOWに衝撃を与えた1976年と78年のふたつの出来事、そして渡英して現地で体験した生のパンクについて。(全4回の2回目) 【写真】パンクやパンクとの出会いを語るときの、楽しそうな表情が印象的なTAYLOW
ラジオから流れてきたロックンロールのお告げ
愛知県中部。 天下に名だたる大企業・トヨタ自動車のお膝元である豊田市で、TAYLOW(タイロウ)は生まれ育った。 1970年代の幕開けとともに中学校へ入学。以降、多感な時期のすべてを地元の仲間、そして音楽とともに過ごした。 「うちから歩いて5分以内に住んでいる仲のいい友達はみんな、同じような音楽を聞いて育ってます。小学校で一斉に『ビートルズ、かっこいいよね』。それから『モンキーズがいいよ!』って。中学生になった頃ビートルズが解散しちゃうと、次はみんなで『ハードロックかっこいい!』。 1974年だったかな、高校生の頃に僕はニューヨークのアンダーグラウンドロックを知り、好きになりました。イギリスのパブロックを知ったのも、ほぼ同時期です」 自分が見つけたかっこいい音楽はすぐ仲間たちと共有し、みんなで音楽を楽しんでいた少年時代のTAYLOW。 ハードロックの次はプログレを、その次はミュージック・コンクレート(音響・録音技術を駆使した実験的な現代音楽)などへと進み、いずれはジャズを聴き始めるという、正統派音楽マニアのステップを上りつつあった彼らだったが、1976年、“もう一回ロックンロールを聞きなさい”という天からのお告げを受けることになる。 きっかけは、音楽評論家・大貫憲章が初めてDJを担当したNHKラジオ第一、土曜夜の音楽番組『若いこだま』だ。 当時、ロンドンで実地体験してきたパンクを、日本国内で積極的に発信するようになっていた大貫は、ある日、番組内でセックス・ピストルズやダムドの曲を流した。タイロウの記憶によると、そのときが多くの日本人とパンクとの初接触だったという。 「豊田市は何にもなくて、『ミュージックライフ』のような音楽雑誌の記事を、みんなよだれ垂らしながら見てるような場所。パンクというのが始まってて、どんな格好してどんな音楽を演奏してるかって、雑誌の記事でなんとなく知り始めたところに、そのラジオが流れたんです」