《記者コラム》明治初期に南米公演した軽業師=最初のブラジル在住日本人は誰か?
ブラジル移民史の伝説的人物、竹沢万次
ブラジル日本移民史にでてくる最初の日本人軽業師は、なんといっても竹沢万次だ。「1870年頃に自らサーカス一座を率いて、リオからアマゾナスや最南端のリオ・グランデ・ド・スル州、さらに南のウルグアイやアルゼンチンまで巡業して歩いた」と伝えられている。 いわば、正式な日本移民開始以前の〝神代の時代〟に、独自に移住して生活を築いていた伝説的な人物の一人だ。 笠戸丸の2年前、1906年にサンパウロ市サンベント街に最初の日本人商店を藤崎三郎助が開店して間もない頃、竹沢万次は移住以来、初めてなつかしい同胞を訪ねた。 でも20数年も日本語を使っていなかった竹沢万次は、「天皇陛下はまだご存命ですか?」と片言のような日本語でしゃべっただけだったと言われる。それを聞いた鈴木南樹は、《万次はさすがに武士であり、日本人である》と、後世数限りなく引用された逸話を初めて記した。 この竹沢万次と連れの少年が、広告に出てくる《芸人ジェロニノとジョアニット少年》だった可能性がある。つまり、竹沢万次らはサツマ座の一員で、ブエノス・アイレスで解散した後、ブラジル・サンパウロを目指した。 ちなみに江戸末期、日本には竹沢万“治”という有名な曲コマ師がいた。この二人は同一人物なのか―という点も大いなる謎だ。 ちなみに竹沢万次に関しては、ニッケイ新聞に《軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史》(https://www.nikkeyshimbun.jp/page/3?s=%E8%BB%BD%E6%A5%AD%E5%B8%AB%E7%AB%B9%E6%B2%A2%E4%B8%87%E6%AC%A1%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86)を2016年2月に27回連載した。そちらも見て欲しい。 誰がサンパウロに来ていたのかを説くカギの一つは、広告にある「日本式階段芸」だ。いったいどんな芸だったのか。 一つの可能性は、大人の芸人の足の上に立った子供が、どんどん四角い箱を自分の足元に積んでいき、上に上に上がっていくような芸だと推測される。 これは、芸筋としてはまさに竹沢万次が得意とするもの。やはり「ジェロニノ」が彼の最初のブラジル公演の芸名かもしれない。だが決定的な証拠ではない。 とはいえ、少なくとも日本人軽業師が1873(明治6)年に、現在のサンパウロ市東洋街のすぐ近くサンベント広場で公演していたことは確かなようだ。 奇しくも日本では、福沢諭吉が『世界国名照覧』において、地理書で初めて「ブラジル」という国名を日本人に紹介した年だ。 福沢諭吉もまさかその時に、すでに日本人が南米まで来て軽業を披露していたとは、想像もできなかったに違いない。(深)※「ディスカバー・ニッケイ」サイト22年1月24日初出記事に加筆〈https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/1/24/〉karuwazashi-1/〉)