《記者コラム》明治初期に南米公演した軽業師=最初のブラジル在住日本人は誰か?
ウルグアイで1873年1月に公演
ウルグアイ東方共和国の首都モンテヴィデオ在住の前田直美さんから以前送られた調査によれば、「サツマ」カンパニー(一座)が1873(明治6)年1、2月に首都のソリス劇場で公演をしている。曲芸、軽業師、奇術師らは1月29日から2月21日までの間に10公演行った。少なくとも明治6年に、日本人曲芸団が実際に南米公演していたことは間違いない。 ウルグアイ地元紙「エル・フェロカリル・モンテヴィデオ」は同年1月29日付で、《サツマ一行が欧州公演前に、モンテヴィデオにて公演》、2月2日には日本の地理、歴史、文化紹介記事、2月6日付では《奇術師YASSO(やそ?)が50針を扱う手さばきが観客の喝采をあびた》とある。 2月21日の公演はジョゼ・エラウリ(当時の上院議長、翌月から大統領に就任)に捧げられたという。(以上、前田直美さんの調査=市立ソリス劇場資料部(CIDDAE)、国立図書館所蔵1873年発行「エル・フェロカリル・モンテヴィデオ」より)
アルゼンチンでも同年3月に
『アルゼンチン日本人移民史』前編(アルゼンチン日本人移民史編纂委員会、2002年)によれば、この「サツマ」一座は、ウルグアイの後にお隣の亜国ブエノス・アイレス市の(旧)コロン劇場にも出演した。 1873(明治6)年3月8日(土)付の公演ポスターが国立演劇博物館に残っている。現在の名高いコロン劇場ではなく、別の場所にあったもっと大衆的な劇場で、サーカス、演劇、歌舞、曲芸などの出し物を扱ったところだという。 つまり、ウルグアイ、アルゼンチンときたら次はブラジルのはずだが、検索しても今のところ、それらしい記事が出てこない。いろいろ調べているうちに、わずかながら足取りが見えてきた。
薩摩座はいつ日本を出たか
「慶応2年のパスポート」(3月31日参照、http://homepage3.nifty.com/gekka-take/KO2-saikoKamekichi.html)には《海外渡航が解禁された慶応二年以降の幕末維新期には、隅田川浪五郎一座、松井源水一座だけでなく、薩摩一座、早竹虎吉一座、鳥潟小三吉一座など、多くの旅芸人一座が海外に飛び出していったという》とあった。つまり、日本を出たのは慶応二年(1866年)だ。 さらに《明治維新後、日本の芸人が相当に海外へ出て行き、1872(明治5)年には岩倉具視遣欧使節団一行がニューヨークで「サツマ」と称する軽業師数名に出会ったと伝えられているが、その「サツマ」一座が南下して、1873年にブエノス・アイレスのコロン劇場の舞台を踏んだということも考えられる》(同亜国移民史19頁)と書かれている。 なんでも、ニューヨークの五番街で岩倉具視遣欧使節団一行とばったり出会ったサツマ一座は、とつぜん石畳に土下座して周りを歩くアメリカ人の通行人を驚かせたとの逸話が残っている。 《米国で巡業をしたあと1870年暮れにオーストラリアに回ってきた薩摩一座というのがある》(3月31日参照、http://www.tokyomagic.jp/labyrinth/matsuyama/ikokunobutai-01.htm)という記述も見つけた。 薩摩一座はおそらく最初の米国の後、オーストラリアへ。その後に再び米国に戻り、今度は南下して、1872年にはチリやペルーに足を延ばしたのではないか。 そして1873年1月にウルグアイ、亜国に来ていた。欧米では思うような成功ができなかったから、他の人が来ない南米まで足を伸ばしたのかもしれない。