鉄砲作りの技術はやがて花火、望遠鏡へ。最強の矛と盾「石垣の穴太衆」と「鉄砲の国友衆」を巡る
ものづくりの歴史と誇りが感じられる町
全国様々な山城、城跡をバイクで巡る旅を続けていますが、石垣造りの石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」と、鉄砲作りの技術集団「国友衆(くにともしゅう)」の対決を描いた小説、直木賞受賞作「塞王の楯」を読み、特殊技能集団に興味が湧きました。日本の歴史を変えた、火縄銃を制作した国友の町をバイクで巡りました。 【画像】「国友衆」の技術と歴史が息づく町を画像で見る(25枚)
まず訪れたのは、滋賀県長浜市国友町にある「国友鉄砲ミュージアム」です。 突然ですが、バイク旅の良いところは、クルマと違って町の空気をより深く敏感に感じられるところです。いままでも山城を訪れる際は、その麓の城下町であったであろう土地の空気を、走りながら肌で感じてきました。 ここ国友町も、足を踏み入れた瞬間から明らかに情景と空気が変わりました。歴史を感じさせ、どこか凛とした空気を纏う国友の街並み。そこにミュージアムがありました。 館内は撮影可能とのことで、色々と記録撮影をさせて頂きましたが、ちょうど動画クルーの一団も撮影に来ていました。 まずはシアタールームで、国友の歴史を映像で見せて頂き、その概要を知ることができました。
西洋銃の伝来は、1543年8月25日に種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人から。この時2挺の鉄砲(火縄銃)が日本に持ち込まれ、国友や堺(大阪府)、根来(和歌山県)など、各地で鉄砲の生産が始まりました。 驚くことに、鉄砲伝来の直後から(翌年とも言われている)、足利将軍の命により国友で制作が開始されています。 国友は鍛冶屋が多く、刀剣などの生産地でもあったそうで、その技術の高さが知られていたことで、鉄砲作りを依頼されたのでしょう。 制作で一際苦労したのが、銃身後部に使用する雌ネジを切る技術だったと言われています。「鉄砲を作ることはネジを作ること」だそうで、筒の後ろを止める尾栓(びせん=雄ネジ)の使用によって、筒の煤掃除が可能となりました。 シアターでは村にいた次郎助という鍛治職人が、試しに刃の欠けた小刀で大根をくり抜き、それを再度大根にねじ込むことでネジの構造を理解したと伝えていました。 ネジの理屈を鉄加工で実現するための試行錯誤を経て、苦心の結果完成させたというわけです。 このネジ制作技術は、大量生産が可能になるほど高レベルなものだったそうです。後の江戸末期にペリーが来航し、ネジ切り用の旋盤が伝来したそうですが、そんな専用工具が無くても高精度なネジ、鉄砲を大量生産できた国友衆の技術の高さは素晴らしいの一言です。