「河堀口」「清児」「小橋町」全問正解なら大阪人!?
「小橋町」小さな橋に日本初の大きな物語
冬の青空をバックに、交差点で町名をアピールする「小橋町」の表示板。「おばせちょう」と読む。天王寺区の「小橋町」に加え、隣接する東成区に「東小橋」の町名が残っている。 町名の由来は神代の時代までさかのぼることができる。仁徳天皇の時代、猪甘津(いかいのつ)に橋がかけられ、橋のある場所を小橋と名付けたとする記述が、「日本書紀」にある。この橋が日本で初めての人工橋との見方もされている。 上町台地東側のご当地は古代、大阪湾が入り込み、内外の船が出入りする国際港湾都市の様相を呈していた。渡来人がもたらした最新の架橋技術で、記述するにふさわしいほど立派な橋が建設されたのかもしれない。 東成区の「神路」は「かみじ」と読む。神武天皇が遠征時に通った道との伝承から生まれたというから、こちらの町名伝説も時空を超えてスケールが大きい。
「河堀口」は和気清麻呂の夢の跡
近鉄大阪阿部野橋駅から南大阪線でひとつ目の駅が「河堀口」駅。読めそうで読めない「こぼれぐち」だ。 日本人は古来より水と格闘してきた。奈良時代、和気清麻呂が上町台地周辺のわずかな高低差を利用して、不要な悪水を流す利水工事を実施しようとしたが、思うようにいかない。放水路の建設に着手したものの、中止を余儀なくされてしまう。掘りかけた場所が「河堀」(こぼり)の口だから、「こぼれぐち」となまったようだ。 近鉄各線は古代から栄えた河内地域を網羅して走るだけに、古式ゆかしき難読駅名が散りばめられている。「布忍」(ぬのせ)、「恵我ノ荘」(えがのしょう)、「土師ノ里」(はじのさと)、「上ノ太子」(かみのたいし)、「弥刀」(みと)、「恩智」(おんぢ)、「堅下」(かたしも)、「額田」(ぬかた)などだ。 埴輪の陶工集団である土師部一族が住んでいた土師ノ里をはじめ、いずれの駅名にも、時の流れに耐え抜いた地域の興味深いニュースが刻まれている。
「新喜多」「南恩加島」新田のネーミングに法則あり
「新喜多」は「しぎた」。城東区に「新喜多」と「新喜多東」があり、東大阪市にも「新喜多」の町名が残る。江戸期、大坂で盛んだった新田開発で生まれた町名だ。大和川の付け替え工事が行われた際、旧大和川の川床を農地に整備して、新田が作られた。 新田開発は町人が請け負う場合、膨大な資金が必要なうえ、ハイリスクハイリターンのベンチャー事業的色彩が強かったため、複数の町人による共同開発となるケースがあった。ご当地の開発プロジェクトは3人の商人が共同で決行。参画した鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の名前をひと文字ずつ集めて、「新喜多新田」と命名された。 八尾市山本町の町名も、大和川の付け替えに伴い開発された「山本新田」に由来する。こちらは共同開発者である山中庄兵衛、本山弥右衛門の名字ひと文字を組み合わせて、「山本新田」の名称が考案された。新田のネーミングには、共同開発者の名字と名字、名前と名前を組み合わせるふた通りの法則があったわけだ。 大正区の「南恩加島」(みなみおかじま)一帯には、かつて「南恩加島新田」が広がっていた。単独で開発に挑んだ岡島嘉平次の名字「岡島」が、「恩加島」にアレンジされて名付けられた。「恩を加える」という表現には、長年の苦労に報いる幕府の敬意が込められたようだ。 このほか、大阪ベイエリアに点在する此花区の酉島(とりしま)、島屋、春日出、大正区の泉尾(いずお)、千島、住之江区の加賀屋、北島などの地名は、いずれも新田開発の歴史を今に伝えている。新田地名を点と線で結ぶと、大坂商人たちの奮闘の最前線が浮かび上がってくる。