「河堀口」「清児」「小橋町」全問正解なら大阪人!?
「大阪難読地名を楽しむ」、好評につき第2弾をまとめてみた。時代を超えて役割を受け継ぐ渡し船と鉄道のコラボレーション。地名の「点と線」で浮かび上がる大阪ベイエリアの奮闘最前線。地名に埋め込まれた物語の構造とは何か。ミステリアスな難読地名の旅へ行きまひょか~。
貝塚の水間鉄道は『難読駅名鉄道』?
大阪府南部、貝塚市内を走る水間鉄道。営業距離5.5キロ、10駅だけの短いローカル鉄道だが、難読系駅名が連続して出迎えてくれる。「近義の里」(こぎのさと)、「石才」(いしざい)、「清児」(せちご)、「名越」(なごせ)、「三ヶ山口」(みかやまぐち)などだ。 「清児」の町名誕生には、奈良時代の高僧行基が登場する。行基は社会事業に力を注ぎ、とくに土木工事が得意だった。行基が整備したとされるため池や港が関西一円に点在している。土木建築技術に精通したハイテク僧侶だった。 夢に現れた観音様を求めて行基がご当地を訪れた際、道に迷ってしまう。そのとき、愛らしい子どもたちが現れ、道案内をしてくれた。子どもたちはもちをついて行基にふるまったとも伝わる。喜んだ行基は「なんと清らかな子どもたちよ」と感心したところから、清児の地名が生まれたという。 前回のおさらいになるが、地下鉄谷町線「喜連瓜破(きれうりわり)」駅の「瓜破」の由来を思い出していただきたい。通りがかった弘法大師空海に村人が瓜を割って差し出し、のどのかわきをいやしたとの伝承が、「瓜破」につながった。空海も行基と同様、各地を歩いて民衆とふれあい、社会事業に取り組んだ。 ありがたいお坊さんを、貧しい民衆ができる範囲内の善行でもてなす。「清児」と「瓜破」。難読地名に埋め込まれた共通する物語の構造から、日本人の信仰と暮らしぶりが垣間見えてくる。
元渡し場の「十三」は優雅に広がる扇の要
大阪市内に戻ろう。阪急電車難読駅名の代表格は、「十三」「柴島」駅。初めての人は「じゅうそう」「くにじま」とは読めないだろう。 十三の由来は、13番目の渡し場があったからとの説が一般的だ。橋がほとんどなかった明治初期まで、街道を行き交う人々は渡し船に頼るしかなかった。荷馬車で陸路運んできた物資も、いったん下ろして船に積み替えねば、配達先へ届けられない。旅人や商人たちを相手に飲食を提供する小商いが始まり、やがてにぎやかな十三の市へ発展していく。 扇にたとえると、十三は扇の要(かなめ)。能勢街道や中国街道、山田街道などが扇を広げるようにして、それぞれ目的地へ伸びていた。現在、梅田を出発した阪急電車が十三駅を起点として3線に分かれ、京都、宝塚、神戸をめざす構図と二重写しになる。 十三から渡し船が姿を消して久しいが、十三は人が集まる渡し場の役割を、今も担っている。駅前の庶民的な飲食街が火災に見舞われたが、一日も早い復活を祈りたい。