64年東京五輪・コンパニオン秘話 皇太子夫妻にサインをねだる姿にIOC委員長は困惑…「当時の日本人は未来に惚れていた」
大半は上流階級の帰国子女
賓客をもてなすコンパニオンたちも、選りすぐりの人材だった。彼女たちに課せられたのは、来日するIOC(国際オリンピック委員会)委員の秘書的な仕事である。通訳をし、パーティがあれば同伴、また家族がいる場合には、夫人や子どもの買い物、ガイド、観劇のチケット手配なども行った。あくまでも黒子的立場であるため、黒の制服を着用し、結婚指輪以外の装飾品は禁止された。 当時のIOC委員には、各国の王侯貴族が就任することが多かった。そうした人たちを接待するには、語学だけでなく、相応の教養やマナーが身に付いた人でなくてはならなかった。だから彼女たちのほとんどは上流階級の出身で、当時はまだ数少ない帰国子女だった。 コンパニオンは原則として、競技場の控え室で待機していなくてはならなかった。だが、開会式だけはオリンピック組織委員会の特別な計らいにより、貴賓席の後ろに場所を与えられ、立って見ることができた。
平和なんだなという思いが
タレントとしても活躍したコンパニオンの一人、加川ムーザ歌子(旧姓・毛馬内)さんはこう振り返る。 「人種も違う、肌の色も違う人たちが、一ヶ所に集まっているというその事実に感動していました。日本は昭和15年のオリンピック開催を戦争のために逃しているので、平和なんだなという思いもこみ上げてきました」 もっともその感動もつかの間、彼女たちは開会式が終わると担当するIOC委員たちにつき従い、各競技場へと散っていった。忙しい日々の始まりである。 来日していた委員は60人ほどいたから、2、3人の委員を担当しなければならないコンパニオンもいた。チーフの原田さんのもとには、初日から雑多な相談事やトラブルが寄せられてきた。
委員たちに振り回されて
「IOC委員が、会場にカメラやバッグを忘れたというものや、男性の委員が足にペディキュアを塗りたいという問い合わせもありました。自国の選手が予想外に早く負けてしまったため、帰ろうとしても車が来ないとイライラなさる委員もいてあわてました。IOC委員の対応に追われ、食事も満足にできずに走り回るコンパニオンも珍しくなかったんです」 原田さん自身も担当する賓客があった。ブランデージIOC会長と、イランのIOC委員パーラビ殿下である。総合馬術競技場のある軽井沢と東京を日帰りしたいという会長のために、パトカーが先導して、猛スピードで軽井沢との間を往復したり、パーラビ殿下が小型機に乗りたいというので仕方なく同乗し、富士山上空を旋回したこともあった。 原田さんにはそれ以外にも組織委員会から来る英文の文書を翻訳し、必要があるときには、儀典長を通したうえで行事にあわせた儀式の規定を吟味し、各コンパニオンに通知するという仕事も任されていた。朝7時に出勤しても帰途につけるのは、毎晩12時すぎ。当時、家には小学生と中学生の子どもがいたが、家事は家政婦に任せていた。