プロ志望届を提出した"令和最初の甲子園優勝投手" 履正社時代の恩師は「人間的な成長を感じる」と太鼓判
最速153キロを誇る速球に、カットボール、スプリット、フォークなどの多彩な変化球を織り交ぜ、打者を仕留める東洋大学の岩崎峻典(4年、履正社)。高2の夏に甲子園で頂点に立ってから5年。大学で着々と力をつけ、東都2部リーグ所属ながらスカウトの熱視線を浴びている。 【写真】清原正吾・金丸夢斗・宗山塁……主なプロ志望届提出者を写真で紹介!
「みんなで宿舎に泊まれる楽しさ」があった甲子園
2019年8月、令和最初の夏の甲子園で優勝投手に輝いたのは、背番号17番の2年生右腕だった。星稜(石川)との決勝で岩崎は七回途中から救援し、2死満塁のピンチを切り抜けると、八、九回も無失点に抑え、歓喜の輪の中心に立った。履正社初の全国制覇に貢献した5年前の夏を笑顔で振り返る。 「履正社は寮がなかったので、甲子園ではみんなで宿舎に泊まれる楽しさがありました。選抜のときは1回戦負けだったので、3日ぐらいしか泊まれなかったんです。夏は一つ勝てば1週間ぐらい泊まれて、もう一つ勝てばまた何日か泊まれて……。結局25泊ぐらいしたのかな。最後の方は、さすがにそろそろ家に帰りたくなりました」
どうして履正社に行けたのか、分からなかった
小学生の頃は城北ユニオンズでソフトボールをプレー。中学時代は硬式野球の大淀ボーイズに所属し、1、2年時は内野を守ることが多かったが、3年時に投手に転向した。大淀ボーイズでチームメートだった島野圭太(帝京大学4年)、田浦和真(大阪学院大学4年)とともに履正社へ進学した。 「なんで自分、履正社に行けたのか分からないんですよ。目立つ方じゃなかったし、体も小さかったし、中2ぐらいまでは試合にもあんまり出てなかったし……」とのちの甲子園優勝投手は当時を不思議がる。 このとき履正社を率いていた岡田龍生監督(現・東洋大姫路監督)は、中学時代の岩崎の印象についてこう語る。「投げっぷりがよくて、投げ方にクセがなかった。伸びしろがあると感じたんです。トレーニングと食事をきちっとできれば、体は間違いなく大きくなると思っていました。2年生の夏は大阪大会も甲子園も、優勝のときには岩崎がマウンドにいましたから、何か持ってる子なのかもしれないですね」。履正社を甲子園常連校に育て上げた名将は、岩崎の素質を見抜いていた。 高校入学時「身長は170cmなかったぐらい」(本人)だったという体は、食事の量を増やしたこととトレーニングによって大きくなった。身長は10cm近く伸び、体重も15kgほどの増量に成功。体が大きくなるに伴い、パフォーマンスも上がっていった。1年秋からベンチ入りし、2年春には登板なしながら、選抜高校野球大会にも出場した。 選抜後にカットボールを習得したことが、飛躍のきっかけになった。2年夏の大阪大会では、5回戦の岸和田戦で7回参考ながらノーヒットノーランを達成するなど、5試合で22回3分の1を投げて2失点、32奪三振の好成績を収めた。甲子園では4試合で18回3分の1を投げて4失点。15奪三振の内容で全国制覇に貢献した。