「挑戦が誤解されるかも」ミス・ジャパン初代グランプリの土屋炎伽が母と深夜に交わした言葉と13年間チアを続ける「原動力」
明治大学応援団バトン・チアリーディング部を卒業後、富士通フロンティアレッツとして活動していた土屋炎伽さんは、27歳のときに出場した「ミス・ジャパン」でグランプリに輝きました。新しい自分を見つけたくて応募したコンテストでしたが、「選んでいただけたことはうれしいけれど、挑戦してよかったと言うには迷いがある」と振り返ります。応募に至るまでの経緯と抱えていた思い、会社員とチアリーダーの両立で多忙だった日々などについて話してくれました。(全3回中の2回) 【画像】「この美しさは納得」初代グランプリに輝いたときの土屋炎伽さんから、最近のプライベートショットまで(全14枚)
■会社員とチアの両立、3時間睡眠で出社することも ── 社会人になってもチアを続けることを前提に就職活動をしていたのでしょうか? 土屋さん:初めから決めていたわけではなくて、食品メーカーや旅行会社などを受けていました。就活を始めたころは、体育会の部活動を頑張ってきたことは強みになると思っていたのですが、面接では「大学で何をやっていましたか?」という質問に対して「4年間、応援団でチアをやっていました」と答えると、「ほかには何をやっていましたか?」と聞かれることが多くて。「今まで全力を注いでいろいろなことを乗り越えてきたのに、この4年間を生かせないんだ。認めてもらえないんだ」というような気持ちになってしまい、すごくショックを受けたんです。
内定をくださった企業もあったのですが、なんとなくしっくりこない気持ちで就活を終えようとしていたときに、明治大学の応援団に富士通のチアリーダー募集の用紙が届いて。「これだ!ここなら自分のチアを生かせるかもしれない!」とピンと来て、チアのオーディションと会社の採用試験を受けることにしました。 ── 富士通へ入社後、会社員としてはどのような業務を担当していましたか? 土屋さん:入社後は営業の人事部に配属となり、海外駐在や転勤、中途採用、昇格、評価に関する手続き、育休などの面談を担当していました。仕事量も調整してくださってとても恵まれた職場だったのですが、皆さんがまだ仕事をしているなか、私だけは仕事を切り上げて夜の練習に行かなければならないこともあって。やはり申し訳なさがあったので、早いときは朝6時すぎに会社に行って、残業できなかった分の仕事をして、夜は体育館で練習をして、終電で帰宅する。3時間ほど寝て、また出社するというような生活を送っていました。