妻と死別…元読売テレビ清水健アナがシングルファーザーとなってたどり着いた答え 「自分らしく。それが息子のためにもなる」#令和の親 #令和の子
だが、思いとは裏腹に、清水は周囲から孤立していった。「100%でできていないかもしれない自分が本当に歯がゆかった。そうなると意固地というか、すごく自分にバリアを張ってしまった。『もう何も言うな』って。勝手に孤独になって。そうなると誰も寄ってこないですよね」と、自戒を込める。
局側からは部署異動など提案を受け慰留されたが、「やっぱりアナウンサーでいたい。そうでないなら、いったん距離を置こう」と、自身の心に従った。「プライド、変なプライドですよね」と、今では笑って振り返ることができる。
「でもね」と、一呼吸置いた清水。「一言でも(弱音を)言えたら、何かが変わっていたのかもしれない。その答えって本当にわからない」と、首をひねった。辞めたことが正しかったのか、体が壊れても全力を尽くすべきだったか、カメラの前で弱さをさらけ出すことで心身の安定は図れたのか。今でも答えは出ない。
キャスター業からは距離を置いたものの、余裕ができたわけではなかったという。生活していくためには働かなければならない。フリーアナウンサーとして講演会などを行いながら、がん撲滅やがん患者の支援にも注力。退社直後は「本当にこれで良かったのか、と思ったし、妻と出会った場所、妻が応援してくれていた場所だったので」と、前職への思いも消えることはなかったが、「100%の父親」であろうと努力を続けた。
家族ゆえに衝突「初めて、親に向かって『ごめんな』って」
フリーとして多忙を極める中、協力してくれた家族の存在は大きかった。特に現在も同居する母親へは頭が上がらない。「74歳になって、体力的にもしんどくなっているはずなのに、本当に頑張ってくれている。僕のことで心配を掛け、今は息子のことで心配させて。2回子育てをさせているわけですから。オカンには何も言えないですよね」と苦笑する。
奈緒さんが亡くなり、十数年ぶりに母親と同居することとなり、家族ゆえに衝突することも多かったという。「子育ては絶対的にオカンが先輩なんですが、気を遣って言わないんですよね。僕も何かあっても言わない、言えない。ギスギスするときはいっぱいありました」。息子が1歳、清水自身の心もまだ不安定だった時期に、ひときわ大きな衝突があった。「『もういいよ、全部オレがやる』って。絶対に1人ではできないんですけど。オカンも家を飛び出して、10分後に帰ってきて。その時に初めて、親に向かって『ごめんな』って、謝れたと思う」と、少し恥ずかしそうに当時を振り返る。