なぜ研究者は論理的でない手法を「なんとなくバカにしてしまう」のか…落合陽一が考える、「非論理的なこと」を排除せずに対話するために必要なこと
ムーブメントとバイブス
様々な対立構造を作る中で、立ち位置が溶けてしまうようなものを選び、新しい自然を探究してきました。アプリケーションやアルゴリズムを考える中で物質と映像の垣根に常にいた気がします。新しい自然、質量のある自然と質量のない自然の中間地点。 以前は質量への憧憬といっても、ほとんどの人はピンとこなかったかもしれませんが、いま伝わっているような気がしています。 僕はずっと前からいまのみんなくらいにピクセルに囲まれて生きてきて、そこから来る質量への憧憬や映像と物質の垣根にあるマテリアリティに着目してきました。でもいまこの世界は質量への憧憬の中にあります。そこでやっと伝わる言葉もある。そんな自然観が実装されるような自然環境は人間にとって何なのかをよく考えます。 たとえばXboxのアバターをつくる際に義足や義手、車椅子がアイテムとして選べるようになったアップデートを受け、"Computationally incubated diversity(コンピュータで促進させられたダイバーシティ)"とツイートしました。 障害があるからではなく、義足や義手が単純にクールだから選んでいるとすれば、ダイバーシティとしては正しい方向だと思っています。自由度や気にしなさをどのように互いに尊重できるかということが大切です。 そもそも機械学習でものを作る、その言語空間が大切で、その言語はこの世界を構成する巨大なホログラムでできた文学であって、世界は計算しながら詩を綴つづっています。その自覚を持って生きることがデジタルネイチャーに生きることなのです。 ポエティックなグラフィクスをリアルタイムに生成できる世界になったのは良いことだと思います。私は物理的な研究貢献はしているが言語的な研究貢献との間の接続が気になりはじめています。魔法の世紀で世界の再魔術化でデジタルネイチャーで世界は計算していてホログラムの中に生きる共感覚的なデジタルの自然なのです。喜びを共有したい、と思います。 テクノロジーですべての問題が解決するなんて考えたこともありません。しかしながらテクノロジーを使わないで問題を解決しようと考えることはありません。クロス・ダイバーシティで何が重要かって言ったらバイブスだ、という話をいつもシンポジウムのときに言っています。自分たちが作るのはテクノロジーではなくてムーブメントだとも言っています。 ただそこには何らかの技術開発に伴う生態系とレガシーがあるべきでしょう。もちろん論文は書くけど、「お家元」に「お金が動いて」、ははぁ、「ご研究のご文脈が作られた」っていうだけじゃ不満足なのです。 2022年に入ってから、どうやってレガシーを考えるか、を探しています。ムーブメントとバイブスを意識しながら、技術と人の生態系が作る先を考えていきたいと。
+αオンライン編集部