なぜ研究者は論理的でない手法を「なんとなくバカにしてしまう」のか…落合陽一が考える、「非論理的なこと」を排除せずに対話するために必要なこと
当たり前からは跳躍は生まれない
金属製の腕を使って、人生ではじめての拍手をする乙武洋匡氏が発する金属音はグルーヴを生み出し、身体拡張された義足による歩行は人々にリズムと応援の声を響かせ、コンヴィヴィアルな体験を伝播させていったのです。 国立競技場の100メートルトラックの上で、乙武洋匡氏の身体は、「楽器」にトランスフォーム(変成)していました。社会的困難に向かう左脳的アイコンではなく、群衆にグルーヴを生み出し、その相互理解のための演奏を行う右脳的パフォーマーに変化したことは、予想していなかった着地でした。 感動ポルノなんてクソ喰らえ、と言っていた2018年から変化したものがたくさんあります。 身体的な活動を主体とするCRESTクロス・ダイバーシティは感動ポルノではなく、グルーヴをもたらす音楽です。この後味は長く余韻になるでしょう。言葉で消化されるロジカルなキャンディではなく、胸の高鳴りを通じて具体的な身体行動を伴うトラックになると確信させられました。 遠藤チームが生んだものは、乙武氏がたくさんの聴衆に共感を響かせるための新しい身体楽器だったのだと思うと、それはそれで爽やかな気分になります。難しいことはいいのだ、そしてロジカルなキャンディも必要ないのだ―おめでとう乙武さん。 最高の音楽でした。いつも大変な練習を重ねてくれて本当にありがとう。新しい身体性を獲得されたことをいまはただ祝いたいと思います。 そう、音はしないが、音楽が奏でられるようになったんだぜ。これは「きのこの楽器だ」。ありがとうジョン・ケージ。 きのこの楽器というネーミングの危うさとエロと胡う散さん臭さ。しかしそういった想定外使用からしか次のステップは見出されないのだと思います。当たり前のものが当たり前の場所でしか使われないなら、それが跳躍を生むことはありません。音がしない音楽、それを奏でるための楽器、いや、そのための身体拡張。きのこでケチャップを作ったらDogs-upって言うのでしょうか。ジョン・ケージ。