なぜ研究者は論理的でない手法を「なんとなくバカにしてしまう」のか…落合陽一が考える、「非論理的なこと」を排除せずに対話するために必要なこと
デジタルデータと自然の融和
新しい自然を実現していくことを自らのビジョンとしているけれど、その自然は人によって都合のいい自然と言えます。そういった意味でデジタルネイチャー(計算機自然)は多様な身体を揺籃します。それは新しい自然を構築した人類が自らの身体を精神の形の一つとして多様に獲得していく過程なのです。 デジタルネイチャーは身体に多様性を生み出します。多様性と自然の関係性を以前インタビューで話したことがあります。 「僕の考える自然というのは、マテリアルトランスフォーメーション可能な自然。荘子がある日うたた寝していると蝶々になってしまった夢を見たという話のように、"物化する自然"、あらゆるものが定型をとどめずあらゆる形で自由になれるというのはどういうことだろうというのが僕にとっての自然の探求です。 そこで熱が失われるのか、何が変換されるのかという部分で、情報だけが変換されるならば、それはある種、物理現象よりももっと自由になれるんじゃないかという自然観を僕は持っています。そして、自然体が自然体のままでいられるというのは素晴らしいこと。そのために自然の側も歪ゆがめてしまっていいのではと思っています」 デジタルネイチャーは2015年に研究室を始めたときにつけたビジョンの名称です。 質量のないデジタルデータと質量のある自然が融和し、そのどちらでもない自然に生まれ変わった自然・自然観をデジタルネイチャーと呼んでいます。名前のない新しい自然の呼び名の一つで、ニューノーマルやニューメディアアートみたいなものだと思っています。 デジタルネイチャーはイメージと物質の間で考えていた際にその間をとりなす感覚を一般化した平衡点であり、元来の自然と計算機が不可分の状態にあります。これはユビキタスコンピューティングとかIoT(モノのインターネット)とか言われる世界のことで、その世界にやがて元来の自然と区別不可能なくらいにコンピュータが入ってくることになります。 これはおそらく皆さんが知っているこの世界の進捗の話でしょう。解像度は上がっていき、センサーとアクチュエータ(エネルギーを動作に変換する装置)は増えていきます。 もう一つの過程は計算機の中にある自然が成熟した状態です。 これは物理シミュレーションとか機械学習エージェント同士の対話とか、データ同士の振る舞いが見せる新しい自然がコンピュータの中に成熟した状態を指しています。これも皆が知っている話でしょう。データは大容量化し、アルゴリズムは精緻になり、出てくるリザルトは自由度を増していきます。 その両者の間に着地点があります。この着地点は元来の自然の解像度を上げていった世界とはまたちょっと異なった着地であることが予想されます。人間に機械を組み合わせたり、山頂でzoom飲みをする世界かもしれませんが、元来の自然の持っている範囲からはみ出していて、それでいて、データの自然だけでは到達しないものがあるはずだ、というモチベーションによって成り立っているのです。