なぜ研究者は論理的でない手法を「なんとなくバカにしてしまう」のか…落合陽一が考える、「非論理的なこと」を排除せずに対話するために必要なこと
質量のない自然と質量のある自然の着地
当時のモチベーションを一般化するときに出てきたのが質量のない自然と質量のある自然の着地という考え方です。元来の自然のようでいて計算機であり、計算機上に見えて元来の自然。 なぜそんなことを考えるようになったのかといえば、僕が博士課程でやっていたことは、映像と物質の間にあるものはなんだと考えていたことに由来するからです。映像のようでいて物質であるし、物質のようでいて映像であるものとは何か。その実装が計算機音場によるグラフィクスだったり、ホログラムによるプラズマだったりしました。 要は、触われるけど映像のように消えちゃうものもある、ということ。意外とそれは実装できました。そこに着眼していくときに見出されたのが質量性・非質量性の対比であり、計算機技術の成熟とともに訪れるであろう新しい自然のことです。そのときに対比構造になってくるのは元来の自然とデータの自然だけれど、元来の自然はもはや計算機に囲まれているし、データの自然のほうは元来の自然のデータを吸収しつづけ、独自の計算を生み出しつづけています。 その間にある新しい自然、これに名前をつけなくてはならない。そうやってできたのがデジタルネイチャーという暫定名称でした。だからよく名前が変わっていきます。「計算機と自然、計算機の自然」と同語反復したのはまさにここですし、「質量のある自然、質量のない自然」と言い換えることもできます。 研究センターにあるデジタルネイチャーの解説は、以下の通りです。 〈人に纏まつわる情報工学研究を軸としながら、新しい自然において今よりもっと多様な未来を実現するための基礎技術研究、応用研究、デザインの探求、そして社会実装に取り組んでいます。 新しい自然では、人と機械、質量ある物質の世界と質量なきデータの世界の間に、元来の自然では起こり得なかった多様な未来の形が多元的に存在していく、と私達は考えています。 人の作り出した計算機により紡がれる新しい自然はどんな姿をしているのか? 筑波大学デジタルネイチャー開発研究センターでは、新しい自然をより確かな形で思い描き、人と調和する持続可能な自然に近づけていくために、様々な計算機技術の応用を実装し、世に問いながら産業・学問・芸術に至るさまざまな問題解決に挑戦しています〉 いままで計算機と自然の中に様々な中庸状態を作ってきました。 「触ったオブジェクトはデータであり物質でもあり、物質を変えればデータも変わるし、データが変われば物質も変わる。電源を消すとそれらも消えてしまう」みたいな考え方や、「ロボットが印刷されたり、データがロボットになったりする」、「この世界はすべてデバッグ可能でいて一回性を持つこともできる」→これはブロックチェーンとかの研究をしていたときの話だったり、「人の身体は制約から解放され、新たな制約を楽しむこともできる」→これはクロス・ダイバーシティのプロジェクトだったり。