なぜ研究者は論理的でない手法を「なんとなくバカにしてしまう」のか…落合陽一が考える、「非論理的なこと」を排除せずに対話するために必要なこと
もの作りをする中で大事なこと
最高の音楽人間/機械がものを作ることには、問題を見つけて解決策としてマーケットに出すという一連の流れがあります。 機械が問題を解くときのキーパートは、AIをどう使うか、つくるか、もしくはどんなユースケースに何がはまるかを考えることにあります。 世の中にアプリケーションやタスクはたくさんありますが、そういったものと、コンピュータビジョンが扱うもの―モノを認識する、ボディ構造をトラッキングする、自然言語処理、音声認識など―をどうすれば最適に組み合わせられるかを考えていくのはとても重要な問題だと思います。 さらに精度の高い文字認識など、"エンジン"は世の中にいっぱいありますが、それをどうユーザーインターフェースに落とし込んで使えるようにするか考えること、また、そういったものの整備をオープンソースでやっていくことも非常に重要な問題となります。それを仕組み化、方式化するのも研究の一つです。 さらにどうデバイスを使えるか、どうやってワークショップのデザイン論ができるかをまとめていくのも我々のテーマの一つです。我々のチームの面白いところは、誰も障害を障害として捉えていないこと、障害を個性と言い切るほどに標準性の悪意を意識し放っておかないところにあります。 "標準化"というものは非常に問題だと思っていて、それに対してどうやって課題解決システムを作って自分たちで使っていけるのかに興味がある人たちの集まりなので、そこがディスカッションしていても常に面白いところです。 テクニカルな話以外に最優先課題となるのは、違いに寄り添うテクノロジーを見つけながら、個別課題から現場共通の課題を抜き出し、様々なデバイスやアプリケーションと自分たちの作っているものを組み合わせて問題を解くことです。
義肢で「歩く」ことを目指すプロジェクト
たとえばプロジェクトの一環として、四肢のない作家・乙武洋匡さんとともに、義足や義手を使って「歩く」ことを目指す「OTOTAKEPROJECT」に挑戦しています。 N対1、つまりN対N(※)じゃなくて、1人のユーザーだけに寄り添うアプローチってなんだろうなと。乙武さんが歩いていく様子をひたすら追いかけていくっていうのは、N人ではなく1人が使う義足を作る様子とそのチームがどう育っていくかを考えていく点で非常に面白いなと。 ※N:複数を示す。「N対1」は「複数対1」、「N対N」は「複数対複数」 どうやって歩けるようにしていくかというのはおそらく1人では解けない問題で、義肢装具士の人、デザインの人、理学療法士の人が入ることでその問題を解決しようとする。そんななかで乙武さんは1年間練習を続けて20メートルくらい歩けるようになりました。プロジェクトのなかで生まれてくる人の輪やコミュニケーションを考えていくことは非常に重要だと思います。 OTOTAKEPROJECTプロジェクトはSony CSLの遠藤謙さんがアスリート支援をしていることもあって、てっきりスポーツの延長のようなもの、もしくは身体拡張による社会運動のようなものだと考えていました。パーツを出力し、組み立て、モーターを動かし、プログラミングと機械学習で取りこぼしたものは、乙武洋匡氏が身体を鍛えることで回収します。とにかく練習を続け、それを理学療法士の内田直生さんやスタッフたちが支えます。 テクノロジーは障害を突破する、テクノロジーの欠陥は人間力によって補完される、大切なのは習慣とモチベーション作りだ、トレーニングとはそういうものなのだ、ということを知る―そんなことを感じながら、いやあくまで身体拡張とテクノ民藝のお話なのだと思っていました。 しかし、先日100メートルを歩く(117メートルでバランスが崩れた)乙武氏のすぐ横でひたすらカメラを回していた自分が感じたのは、それとはまったく違ったものでした。 乙武洋匡氏にとって車椅子は身体拡張されたインフラです。車椅子があれば乙武氏は自由自在に舗装された道をいき、ニュース番組に出演し、身長も自由に変えることができます。あえてテクノロジーを伴う義足を用いて歩く挑戦とは、そういった様々な社会的課題や社会的困難に向かい合うための社会運動で旗を振るようなものだと考えていました。 ところが、結果は違いました。