いよいよ最終回! 藤原道長の最期と紫式部のその後を時代考証が解説
嬉子の出産と死
治安(じあん)元年(一〇二一)二月一日、嬉子(きし)が東宮敦良(あつなが)親王の許に入侍(にゅうじ)した。嬉子十五歳、敦良十三歳の年であった。同じ叔母・甥の関係ではあっても、九歳も年上であった威子(いし)と後一条(ごいちじょう)天皇よりは、自然な年回りと言えよう。これで道長は、威子と嬉子が皇子を産めば、自己の家の栄華は未来永劫、続くと思ったことであろう。 ところが万寿(まんじゅ)二年(一〇二五)、嬉子が臨月を迎えていたものの、赤斑瘡(あかもがさ、麻疹〈ましん〉のこと)を患(わずら)った。八月三日に産気が起こった際、加持(かじ)を行なってはならないと勘申(かんじん)した陰陽師(おんみょうじ)を、道長は勘当(かんどう)した。諸僧が邪気(じゃき、物怪)を怖れるのを見た道長は、みずから加持を行なって邪気を調伏(ちょうぶく)した。 しかし、三日に親仁(ちかひと)王(後の後冷泉〈ごれいぜい〉天皇)を出産した後、嬉子は五日に十九歳で死去した。敦良が即位して後朱雀(ごすざく)天皇となる十一年前のことであった。 道長の悲嘆は極まりなく、八月六日に嬉子の遺骸を法興院(ほこいん)に移した後も、恋慕に堪えずに嬉子に付き添っていた。八日には、道長は加持を行なったことを深く悔い、三宝(さんぽう、仏教)を恨んだという。九日には嬉子が蘇生するという夢を見ている。倫子所生で東宮女御である嬉子の死は、個人的な哀傷(あいしょう)もさることながら、道長と摂関家にとって、政治的に大きな痛手だったことであろう。 人々は、「故堀河左府(ほりかわさふ、顕光)および院の母(娍子〈せいし〉)や院の御息所(みやすどころ、延子〈えんし〉)の霊が吐いた詞に、禅閤の一家は最も怖畏(ふい)がある」と言い合った。実資は、「種々述べるところには、皆、道理が有る」と記している。
後一条天皇の窮状
また、後一条(ごいちじょう)天皇が皇子を儲けられないことも語られる。これは後一条が年少であったうえに、威子以外の后妃を入れず、その威子もなかなか皇子女を懐妊しなかったことによる(後に皇女二人を産んでいる)。 万寿二年九月八日、 後一条は女数千人が宮中に入り乱れて来て止められないという夢を見た(『小右記』)。明らかに性的な欲求不満か、さもなければ女性に対する恐怖心から見たものであろう。 あるいはこの夢を語ることによって、後一条は自己の窮状と要求を、暗に頼通をはじめとする周囲に訴えたのかもしれない。この夢のことを聞いた人々は、邪気だの正法だの、様々な解釈を施しているが、皆、後一条と威子の関係は知っていたはずである。しかし、「本物の女性を宮中に入れれば解決する」などとは、道長や威子、それに藤原彰子(しょうし)を憚ってとても言い出せるものではない(倉本一宏『平安貴族の夢分析』)。 結局、皇統(こうとう)は後一条天皇ではなく後朱雀天皇の子孫に伝えられることとなったのである。