愛知と三重の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
1964年からの構想
もしも、ここに橋があったら……? 津軽海峡や豊予海峡など日本各地には、未完の架橋計画が数多くある。いずれの計画も新たな国土開発と地域振興のために熱望されながらも、実現には至っていない。そのなかのひとつに、伊勢湾口に長大な吊り橋を架ける「伊勢湾口道路」というものがある。 【画像】「えぇぇぇ!?」 これが伊勢湾口道路の「ルート」です! 画像で見る(14枚) 愛知県の渥美半島から伊勢湾を横断して三重県の志摩半島とを繋ぐ構想だ。未完の計画のなかでも、津軽海峡や豊予海峡に比べると、あまり注目されることのない計画。もしも、ここに橋があれば、いったいどんな未来が描かれるのか。まず、この架橋がどのような目論みで構想されたかを解説していこう。 伊勢湾口への架橋が最初に提唱されたのは、1964(昭和39)年に政府の要請で実施された国連調査団のアーネスト・ワイズマンによる、いわゆる「ワイズマン報告」である。この報告では 「伊勢湾を環状に走る交通容量の大きな道路が必要であり、そのために渥美半島と鳥羽を結ぶ道路」 が必要だと提唱している。 この構想は、伊勢湾口への架橋とともに、その周辺の陸上部分を環状道路で結ぶことを目指していた。それにより湾岸地域の移動を容易にし、中部地域全体の一体的かつ均衡ある発展を実現しようとしたのである。
四全総が変えた運命
しかし、1964年という早い段階でこの構想が提唱されたものの、その後の具体的な検討は遅々として進まなかった。転機が訪れたのは1987(昭和62)年である。 この年、政府は「第四次全国総合開発計画(四全総)」を策定。この計画では 「多極分散型国土」 という新たな国土開発のコンセプトが打ち出された。これは、東京一極集中という課題を解決するため、全国の主要都市圏を強固な交通ネットワークで結び、それぞれの地域が独自の発展を遂げることを目指すものであった。この四全総において、中部圏で整備すべき重要インフラとして、次の五つの事業が示された。 ・中部新国際空港 ・東海環状道路 ・伊勢湾岸道路 ・東海北陸自動車道 ・名古屋環状二号線 また四全総では、人口10万人以上のすべての都市を30年以内に高規格道路で結ぶという具体的な目標も掲げられた。高規格道路とは、全国的な自動車交通網を形成する自動車専用道路を指す。しかし、このなかで伊勢湾口道路は、本州四国連絡橋(本四架橋)に続く国家的プロジェクトとして期待されていたにもかかわらず、実際の四全総では 「検討課題」 という位置づけに留められてしまったのである。 前述のとおり、四全総の最大の目標は、東京への一極集中を是正することであった。そのなかで、中部地方の開発方針は、名古屋市を中核都市として育成することに重点が置かれた。具体的には、名古屋市は 「世界的な産業技術の中枢圏域」 として位置づけられ、その機能強化のためにふたつの大規模プロジェクトが提示された。 ・中部新国際空港の建設 ・リニアモーターカーによる中央新幹線の整備 である。これらは、名古屋市の国際競争力を高めるための長期的な調査事業として計画された。さらに四全総では、 「東京圏の地域構造の改編を進めるとともに、関西圏、名古屋圏等において世界都市機能を分担する」 という方針が示された。 また、四全総では中部圏の地理的な範囲にも大きな変更があった。それまでの第三次全国総合開発計画(三全総)では、名古屋圏は愛知県と三重県の二県で構成されていた。しかし、四全総ではこれに岐阜県を加えた東海三県が名古屋圏として再定義された。 この再定義により、名古屋圏における 「三重県の位置づけ」 は大きく変化した。かつては愛知県と並ぶ名古屋圏の重要な構成要素だった三重県は、岐阜県が加わることで相対的な重要性が低下。さらに、開発の重点が名古屋都市圏の強化に置かれたことで、三重県南部の発展は優先度の低い課題となってしまったのである。 このように、四全総の開発方針は名古屋市の機能強化に重点を置き、その周辺部の開発は二次的な課題として位置づけられた。特に三重県南部を含む伊勢湾沿岸地域の均衡ある発展を目指した伊勢湾口道路の構想は、名古屋市の国際競争力強化という新たな方針の前に、優先順位が下がり、実現への道が閉ざされることとなったのである。