「おばあちゃんの長生きレシピ」を称賛する人が知らない、高齢者の「宝くじ」の真実
ZIさん「まあ、誰かのためにすることが、自分を元気にしてくれる面がありますよね」 ここからわかるのは、女性同士で話す場合でも、「自分ごと」としては、毎日の食事づくりは面倒で、苦労が多いものだと互いに共感し合った人たちが、夫がいる女性がその大変さを訴えたとたん、その労をねぎらうどころか、逆に「生きがい」「喜び」「張り合い」とプラスの意味を与え、その負担や苦労を打ち消す関係がつくられる事実である。 その際の根拠となるのは、男性である施設長の場合、「男の僕がするのとは違う、女性の方の場合、それができることが生きがい」と、女が家事を担うのが「あたりまえ」とする性別役割分担意識である。 ● 「愛妻弁当」という言葉が プラスの印象だけを植え付ける また、ひとり暮らし女性と夫婦二人暮らし女性を隔てるのは、妻が夫の食事づくりをすることを「あたりまえ」とする夫婦の性別役割分担意識、夫婦の愛情規範である。「愛妻弁当」という言葉に見るように、妻が夫のためにする家事を、夫に対する愛情表現と見なし、「ご主人の料理をつくることで、元気でいられるし、張り合いもできる」とそれを担う側に恩恵をもたらすという見方である。 事実、ひとり暮らしの場合、3度の食事を2度にする、食べるものもパンと牛乳、野菜サラダ、ときにはお菓子だけといったレベルまで手抜きが可能だ。もちろんそれによって、十分な栄養補給ができなくなったり、生きる「元気」も「張り合い」も失うおそれがないわけではない。 だが、そのことと、2人分の食事づくりや家事負担の重さをねぎらうこととは別であるはずだ。にもかかわらず、多くの場合、両者は一緒くたにされ、愚痴を言うことさえ封じられる。 そして、長寿期女性自身も同じ社会通念を持っており、「愚痴を言っても仕方がない」「自分が頑張るしかない」「歳をとるというのはしんどいこと」とあきらめている。同じ苦労を担う者同士、女性同士が、その負担の重さと苦労を語り合い、分かち合うことは難しい。 したがって、その苦労が大きな声として発信されることはなく、超高齢化が進んだいまの時代だからこそ重い負担となっている事実が、社会的に認知され、共有されることも少ない。 そして、その状況が周囲の人の目に触れ、何らかの支援の手が差し伸べられることになるのは、自力での生活がいよいよ困難となり、生活が破綻したとき。そういうケースが少なくない。
春日キスヨ