日本相撲協会「財団法人設立100周年」と霧島-水戸泉の激闘連続4番
【ベテラン記者コラム】年が改まった早朝の空気に、居住まいを正す。時を待たず、時を置かず。生活環境がめまぐるしく変化しても、正月の気分はまだ昔にある。 令和7年。日本相撲協会は財団法人100周年を迎える。大正14年12月28日付で前身の「大日本相撲協会」が財団法人設立を認可され、昭和33年1月に「大」の文字が取られて現在の名称となり、平成26年に公益財団法人へ移行した。 相撲の起源は古事記(712年)や日本書紀(720年)のなかにある力比べの神話までさかのぼり、宿禰(すくね)や蹶速(けはや)の天覧勝負もあって1500年以上の歴史があるといわれている。それを思えば、100周年といえどもさして長く感じさせないところが、土俵史の懐の深さといえるだろう。 100年前の大正14年11月。合併が決まっていた東京大角力協会と大阪大角力協会の準備段階として力量審査を目的とした東西連盟相撲が京都で開催された。このとき、それまで定められていた「引き分け」「預(あずか)り」が廃止され、現在も続く「取り直し制度」に改められている。 「預り」は物言いがつく相撲などで行司や勝負審判が文字通り勝負結果を預かり置き、引き分け同様にあえて勝敗を決しないときに適用された。江戸時代の幕内力士は多くが有力藩のお抱えだったため、めんつや体面を保つ配慮だったといわれ、大部屋同士の過剰な対抗心、大阪、東京相撲との利害や対立を収める方便にもなった。 斟酌(しんしゃく)を排除し、取り直しが厳粛に履行されることになって、より一層祝祭性が薄れ、競技性が前面に打ち出されるようになっていく。わかりやすい制度改正は観客にも受け入れられたなか、なかでも「霧島-水戸泉」による3度の取り直しはいまも語り継がれている取組だ。 昭和63年夏場所初日。東前頭7枚目の霧島(元大関、現陸奥親方)、東前頭8枚目水戸泉(元関脇、現錦戸親方)が3度続けて物言いがついて取り直しとなり、連続4番取った。 【1番目】水戸泉が寄って出て、霧島が土俵際で右すくい投げ。軍配は水戸泉だったが、取り直し。