【全日本フィギュア】初出場の朝賀俊太朗、髙橋大輔さんに憧れ関西大学へ 度重なるケガを乗り越えつかんだ舞台
全日本フィギュアスケート選手権が12月20日に開幕する。関西大学1年の朝賀俊太朗(向陽台)は憧れの舞台に初めて出場する。全日本への推薦出場を決めた11月の全日本ジュニア選手権ではキス・アンド・クライでおたけびをあげて喜びを爆発させた。度重なるケガに悩まされ、ようやくつかんだ切符。地元・大阪の会場で観客の胸に刻まれるような演技を目指す。 【写真】情熱的なタンゴを演じる朝賀俊太朗
初の全日本ノービスでレベルの高さに驚く
習い事を始めるきっかけが、きょうだいであることは多い。朝賀は3人きょうだいの末っ子で、6歳上の姉はフィギュアスケートを、4歳上の兄は野球を習っていた。両親は分担して送迎しており、その影響もあって朝賀は物心がついた時にはフィギュアスケートと野球の両方を習っていた。 当初は近隣のスケート教室に通っていたが、姉についていくような形で、小学校2年生の時に関西大学たかつきアイスアリーナで長光歌子コーチと本田武史コーチの指導を受けるようになった。ジャンプに苦手意識があり、級の取得に大苦戦していた。なかなか思うような結果につながらないことも多く、野球の方が楽しいと思うことも度々あった。 しかし、5年生の時に初めて全日本ノービス選手権に出場すると、同学年の選手のレベルの高さに驚いた。朝賀はトリプル(3回転)ジャンプに挑戦するレベルであったが、周りの選手は軽々とトリプルを決め、またスケートに対する意識も高く、いまの自分では戦うところまで来ていないことに気付かされた。 そのころはプロ野球選手になる夢もあったが、この大会をきっかけに変わった。 「将来はフィギュアスケートでオリンピックに出る」という夢を胸に刻み、野球をやめてスケートに専念するようになった。
中学3年で京都に拠点を移し下宿生活
努力を続けるもノービスA1年目は結果につながらなかった。それでも落ち込むことはなく、練習したい気持ちにさらに火が付いた。ノービスA2年目の野辺山合宿でシード選手に選ばれ、全日本ノービスに出場して4位入賞。全日本ジュニアにも推薦出場を果たした。 しかし、年上選手の勢いに圧倒され、独特の雰囲気にものまれてしまった。SP(ショートプログラム)でありえないミスを連発して30位に沈み、苦い全日本ジュニアデビューとなった。 悔しい気持ちを糧に練習に励もうとした矢先にケガしてしまい、休養を余儀なくされた。しばらくスケートから離れると、今後について冷静に考える時間が増えた。 いままで周りに同世代の男子選手がいない環境で練習をしていたが、男子選手が多いチームで練習した方が自分には合っているのではないかと思い始めた。両親に相談し、拠点のリンクは変えず、当時中村優(しゅう)さんや木科雄登(関西大大学院1年)が練習していた濱田美栄コーチの下に移ることに決めた。 男子選手が身近なところで練習しているのを見ると、自然とやる気に満ちあふれ、ケガでできなかった分を取り戻すように練習に明け暮れた。その後、国際大会に出場していた本田ルーカス剛史(同志社大学4年)や中村俊介(同1年)らが同じチームに加わり、一緒に練習するようになった。同学年の男子選手がトリプルアクセル(3回転半)を練習し成功しているのを見ると、負けていられないという闘争心が芽生えた。 試合によって結果はまちまちであったが、シーズンを通して試合を楽しむ余裕もあり、スケートに対するモチベーションも上がり続けていた。 しかし、中学3年生になった時に新型コロナの影響で関西大学のリンクが利用できない期間が長く続いた。 当初は夏ごろに濱田コーチの新たな指導拠点である木下アカデミー京都アイスアリーナ(京都府宇治市)に拠点を移し、木下アカデミー所属に変更する予定だったが、早めに練習環境を整え、春ごろに拠点と所属を変更した。 少しでも感染リスクを減らすため、大阪の実家を離れて京都で下宿を始めた。身の回りのことをすべて1人で行いながらリンクに通った。週に1回、母親が下宿先に来て食事面でサポートしてくれるなど家族にも助けられた。 コツコツと練習してきたことがようやく結果につながり、全日本ジュニアでは9位と好成績を残すことができた。