「富士山大噴火」で“東京ドーム約800杯”分の火山灰…噴火の衝撃以上に「二次災害」が江戸時代の人々を苦しめ続けた理由
第1回【前兆は2度の「M8級大地震」だった…歴史上“最新”の「富士山大噴火」の地獄絵図 「黒雲が空一面を覆い、蹴鞠ほどの火山岩が降り注いだ」】からのつづき 【写真】ついにそうなったか…富士山「目隠しコンビニ」の現在は? かつては「休火山」とされていた富士山だが、1979年に「死火山」だったはずの木曽御嶽山が噴火したことを受け、現在は噴火の可能性がある「活火山」である。歴史上最後の噴火は1707(宝永4)年11月23日(新暦12月16日)の「宝永大噴火」。大地震が起こるたびに富士山噴火が注目される理由は、かつても先に“予兆”の大地震が発生していたからだ。大地震と大噴火だけでも被害は甚大だが、宝永大噴火でさらに大きかったのは2次災害だったという。その理由とは? (全2回の第2回:「週刊新潮」2007年12月13日号「300年前の悪夢『富士山』宝永の大噴火」をもとに再構成しました。文中の役職等は掲載当時のままです。敬称一部略) ***
富士山噴火だったと知ったのは3日目
誰もが世の終末が来たと思い、死を覚悟した。同様な記述は『神奈川県史』の中にもある。 〈大御神村(おおみかむら、小山町)では、名主一家三人がこの世の終わりを観念し、寺僧に祈禱をあげてもらい、剃髪して薪を積んだ上に坐り、住職から引導をうけて死を待ったという〉 明けて24日。『降砂記』にはこうある。 〈少し明るくなってきて、ロウソクを捨てようやく親子の顔を見ることができた。岩や砂はごく小さくなり、桃や李(すもも)のようだ。25日には雲の中に太陽が姿を現した。降砂も豆や麦のようになり、たまに桃や李くらいのものもあった。前日によそへ出かけた者が帰ってきて、家族に言うには「富士山が噴火した。南方西方には安全な土地がある」〉 人々は3日目にして、この世の終わりではなく、実は富士山の噴火だったと知る。そして、安全な場所へと移動を開始した。 〈資財を捨て、老人や体の弱い者を助けたり、幼い子供を背負ったりしながら、牛馬をひいて西南方向に逃げた。悲しいかな、逃げる時、禽獣はうち殺されてしまった〉 逃亡の足手まといになる犬、猫、鶏などを殺したということなのだろうか。