「富士山大噴火」で“東京ドーム約800杯”分の火山灰…噴火の衝撃以上に「二次災害」が江戸時代の人々を苦しめ続けた理由
火口に一番近い村は壊滅
富士山東麓で最も甚大な被害を受けたのは、火口に一番近い須走村(すばしりむら、小山町)だった。甲斐と駿河の国境に位置し、江戸時代に盛んだった富士講の参詣者の出入り口としても栄えた村だった。当時の人口は400人。それが噴火によって死の村と化してしまったのである。 〈二十三日昼七つ(午後4時頃)須走村下浅間神主小野大和守の家に火の玉が落ちた。同家は焼け落ち、須走の人は次々と降ってくる石を避けて立ち退くほかなかった。夜九つ(午前0時頃)にも民家の屋根に焼け石が落下し、その火が燃え上がって大火となった。このとき多くの家々が焼失したが、焼失を免れた家も度々の地震によって傾き、深い砂に埋もれた。浅間社も壊れ、富士参詣で賑わった国境いの町須走はたちまちゴーストタウンと化してしまった〉(『小山町史』) 焼失した家は37戸、壊れた家は寺院を含めて39戸を教えた。壊滅である。 噴火後、被災地入りした小田原藩の役人はこう記している。 〈須走村では砂が一丈溜まっている。(中略)村の中で焼け残った家々は砂に埋まり屋根だけが少し見えるくらいである。名主甚太夫の家の前には二間の角材が立てて置いてあり、この角材しか砂の上に見えない〉(『富士山噴火し小田原領内砂降る被害見分の次第』) 1丈は約3メートル。何とも凄まじい火山灰の量である。須走ほどではないが、富士山の東麓の村々はすっぽりと灰に覆われてしまった。
火山灰は江戸にも届いていた
「噴火口のちょうど東の方面にある現在の富士スピードウェイのあたりは1メートルか1.5メートルほどの灰が積もり、今の御殿場プレミアム・アウトレット付近は50センチから1メートル。裾野市の富士サファリパークは南の方向なので10センチ以下、箱根の温泉街や小田原も同じく10センチぐらいだったでしょう」 と言うのは、小山町教育委員会生涯学習センター学芸員で、宝永噴火古文書研究会のメンバーである金子節郎氏だが、火山灰は江戸にも届いていた。2センチほどの降灰があったという記録が残っている。 儒学者の新井白石は回想録『折たく柴の記』にこう書き残した。 〈家を出る時になって、雪が降っているようになっている。よく見ると白い灰が降ってきたのだ。西南の方角を眺めると、黒い雲がわいて、稲妻の閃光がしきりである。西城に着いた時には、白い灰が地面を埋め、草木まで全て白くなっていた。この日は本丸に伺い、午後2時頃に戻り、それから御前に参ったが、空があまりに暗かったのでロウソクを灯して講義を申し上げた。 25日に、また空が暗くなって雷が鳴り響くような音がして、夜になると、灰が大量に降ってきた。この日『富士山が噴火して焼けたためらしい』ということを耳にした。このあと、黒い灰はずっと止まることのないまま12月はじめになり、9日の夜に至って雪が降っ た。世の中の人はみんなのどを痛めて咳に悩まされた〉(口語訳)