「障害者の支援や市議選への出馬」「公務員として地元に貢献」 土性沙羅と小鴨由水、二人の女性オリンピアンが明かした「第二の人生」
「あのすさまじい練習に耐えられたんだから」
市の顔として活躍する土性さん。有名人ゆえの窮屈さはないのか。 「私、普段着で町中をうろうろしているので見られているかもしれないんですけど(笑)。でもあんまり気にしていないんですよ」 働き始めて1年足らず。上々の滑り出しだ。そうでなくとも土性さんの表情が明るいのは、レスリングを続ける中で得られたものがあるからだ。 「私も現役時代、うまくいかないことが何度もありましたが、乗り越える中で折れない心ができました。部員の中には思うような結果が残せなかった選手もいたけれど、みんな全然後悔していない。あのすさまじい練習に耐えられたんだから、これからの人生、何があっても耐えられるって」
「自分の頭で競技に取り組んだかが問われる」
練習の辛さや苦しみを思えば乗り越えられないものはない、という思い。スポーツを通じて得られた耐える力。それについて先輩オリンピアンはどう感じているか。バルセロナ五輪出場から30年以上の人生を歩んできたマラソンランナー・小鴨由水(ゆみ)さん(52)は話す。 「私もそうでしたが、自分の競技種目は好きで得意なので、厳しい練習にも耐えられたんです。でも社会では苦手なことにも対応しなければいけない。そこで苦労する場合があります。大切なのは、難局を乗り越える工夫や知恵です。それを自分の頭で考えられるか。指導者に言われた通りではなく、自分の頭で競技に取り組んだかが問われるような気がしますね」 小鴨さんは彗星のように現れたランナーだった。兵庫県明石市出身。高校までは無名だったが、ダイハツ陸上部に所属して3年目の1992年、初マラソンにもかかわらず、バルセロナ五輪選考レースの一つ、大阪国際女子マラソンで見事優勝。タイムは当時の日本最高記録2時間26分26秒で、五輪内定を手にした。
走る目的が見いだせない
しかし、である。それからが真にいばらの道だった。 「初マラソンでは、五輪のことなんて頭になくて、一度でいいから走ってみたいと思っていたフルマラソンに出られる、そのうれしさだけでした。マラソンの練習はひと月に800キロ以上を走るんです。本当にしんどくて。レースが終わったらしばらく休める……。そのつもりだったのに、記者会見で五輪のことを聞かれて“ええっ?”って。半年後にまたフルマラソン、しかも五輪って……」 気持ちが追いつかないまま、会社の地元大阪府や故郷・兵庫県の各知事へのあいさつに赴き、母校の小中学校であいさつし、児童と走る特別授業や、はたまた各メディアの取材やイベントに担ぎ出される日々が続いた。1カ月間練習ができず、たちまち体重は6キロ増。 「体が重くて走ると疲れる、しかも走る目的が見いだせなくて走れない。精神的に追い込まれていきました」 五輪出場を祝って地元明石市で開かれた壮行記録会では、13人中12位の惨敗。ふがいなさに涙が溢れた。 米国合宿を行うが、小鴨さんは監督に「五輪を辞退したい」と打ち明けた。絶体絶命の局面を救ったのが、心配して渡米した中学校の恩師の一言「両親のために走れ」。走る意味を見つけ、再び走れるようになるが、練習不足は隠せなかった。