「障害者の支援や市議選への出馬」「公務員として地元に貢献」 土性沙羅と小鴨由水、二人の女性オリンピアンが明かした「第二の人生」
「陸上しか知らない自分でいいのか」
五輪本番では前半こそトップを走るも後半から失速、29位でゴール。脱水症状で医務室に搬送された。 弱冠20歳、次の五輪を目指すだろう――そんな周囲の推測をよそに小鴨さんは練習に身が入らなくなる。 「若いからこそ、マラソン以外のことをやりたいという気持ちが芽生えてきたんです。陸上しか知らない自分でいいのかと」 監督に退部の気持ちを伝え、94年、社会人推薦枠があった龍谷大学短期大学部の保育コースに入学した。母親が幼稚園の教諭をしていたことも念頭にあった。 2年の時、思わぬ経験が。保育実習で教護院(現・児童自立支援施設)を訪れたのだ。10歳前後で非行歴のある子もいたが、みんな素直。ある時、五輪に出たことを話すと「走っているところが見たい」と言われた。 「この子たちが目標をもって生きていけるんだったら、また走ろうと思いました」 96年に短大を卒業すると、福岡市に拠点を置く岩田屋駅伝部に加入した。前年に市民マラソン大会で知り合った、かつてのマラソン世界最高記録保持者・重松森雄さんが監督を務めていたのだ。ところが、 「マラソンを走ろうとすると、五輪やそれ以降のツラかった思い出がよみがえって、苦しくて、満足に走れなかったのです」
「“走って配達したら”と冗談を言うお客さまも」
99年に駅伝部は休部になりフリーに。前年にパン職人の男性と結婚し出産。以降、競技から完全に離れ、それまで体験しなかったことに取り組む中で「走ること」や「オリンピアン」の価値に気付かされる。 フリーのランナーになったとはいえ、小鴨さんにはマラソンイベントや講演への出演依頼が毎月のように舞い込んだ。走る練習を続けるために小さな子どもを保育園に預けたいが、仕事に就いて一定時間働く必要がある。ただ、子どもが熱を出した際などに休みをとりやすい職場はなかなか見つからなかった。そんな時、ママ友がヤクルトレディとして働いていたので仕事内容を聞くと、条件に合致した。 「イヤだったらやめればいいと思って始めたんですが、これが面白かったんです。五輪に出たことを知ってくれている人がたくさんいまして、バイクで配達する私を見て、“走って配達したら”と冗談を言うお客さまがいたり。いろんな会話ができるし、知り合いが増えて楽しかったです」 次男を出産後は食材セットや調理済食材の配達に切り替えた。保育園に預けられない下の子を自動車に乗せて仕事ができたからだ。