維新後、軍靴の御用商人として巨利「損益の分岐は時機」 藤田伝三郎(上)
明治時代に活躍した商界の三傑といえば、岩崎弥太郎、五代友厚そして藤田伝三郎(ふじた・でんざぶろう)です。藤田財閥の創立者である藤田、建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞、などの経営に携わり、同和ホールディングスや藤田観光など、名門企業の前身を築きました。また、美術品の収集にも興味を抱き、慈善事業家としても知られています。 藤田の商才が開花したのは、明治維新後で、各地で起きた騒乱がきっかけでした。藤田の実業家としての人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
「明治実業界の三巨人」の一人、藤田伝三郎
没後105年、藤田伝三郎の名前が次第に遠ざかっていくが、藤田は岩崎弥太郎、五代友厚とともに「明治実業界の三巨人」と称される。 「明治における一代の奇傑として、かの岩崎弥太郎、五代友厚とともに商界の三傑と称された藤田伝三郎は72年の全生涯を通し独立、独行を実践した。天下に先んじて独立、独行を説いたのは福沢諭吉であるが、実行したのは藤田である」(実業之世界社編『財界物故傑物伝』) 大財閥の手になるコレクションとしては三井文庫、静嘉堂文庫(三菱)、住友博古館、大蔵集古館、根津美術館などがよく知られているが、大阪市都島にある藤田美術館は最も質が高いとされる。伝三郎とその息子平太郎と2代にわたり収集した美術品には国宝9点、重要文化財45点が含まれている。 同美術館に隣接する太閤園は藤田の別邸跡であり、藤田観光が経営する。東京の椿山荘、箱根小涌園などはいずれも藤田家の別邸が姿を変えて今日に生き続ける。
贋札作りの疑いで逮捕
日本の資本主義勃興期に一代で巨富を築いた藤田伝三郎が山口県知事を務めたことのある親友中野梧一ともども贋札作りの疑いで逮捕される。1879(明治12)年9月のことだ。 今日では完全な冤罪事件とされるが、当時の新聞は「藤田伝三郎、中野梧一を捕縛、払暁巡査70名、藤田伝三郎邸を取巻く」と大々的に報じた。以来、新聞を賑わすことになる。 実は前年暮れから京阪神、九州地方で贋札が出回り、当局は犯人捜しに懸命だった。そんな時、藤田のもとに以前雇われていた木村某が「実地録」なるものを書き、贋札事件の張本人は藤田だとし当局に提出したのだ。この怪文書が引き金となって伝三郎はつかまるが同年12月、100日余りにわたる取り調べの後、無罪放免となる。藤田組は久原庄三郎名で無罪御礼の新聞広告を出して安堵する。