維新後、軍靴の御用商人として巨利「損益の分岐は時機」 藤田伝三郎(上)
明治維新後、商業の道を志す 騒乱の連続で軍靴受注で稼ぎまくる
謹厳な父のもとで育てられた伝三郎は家業(酒造業・金融業)のかたわら政治活動にも関心を持ち、志士たちと交わり、資金を援助した。中でも高杉晋作に師事、奇兵隊に身を投じたこともある。 明治維新でかつての同志たちは新政府に仕え枢要な地位につくが、伝三郎は断然、商業の道を志す。同じ長州出身の大賀幾助の番頭となる。1869(明治2)年のことだ。大賀は当時、大阪で大成功していた。店舗は大阪高麗橋、店主は大賀幾助だが、実際の采配は伝三郎が握った。兵部省のご用達として全国各地に数十カ所の支店、出張所を設け、全国6大都市の鎮台(のちの師団)に軍靴を納め、御用商人として資力を膨らましていった。長州出身者が随所で軍の要職に就いていたことも幸いして、伝三郎の事業は順風満帆の様相を呈した。 当時は佐賀の乱、台湾出兵、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など、騒乱が相次いで起こり、その都度、政府軍は鎮圧に出兵しなければならないのだから軍靴の需要は絶えなかった。 中でも1877(明治10)年の西南戦争での儲けは岩崎弥太郎(海運)、大倉喜八郎(武器)に次ぐ巨利を占めた。西南戦争の終結を待って同年9月、伝三郎は藤田伝三郎商店を設立、社則を定めた。 (第1条)損益の分岐は時機にある。寸時も商事の注意を怠ってはならない。また重要なのは信用であるから実直の心を持ち社則を守り、勉強を怠らない。 (第2条)営業内容は米穀、その他の売買と各鎮台への軍需品の納入、大阪府の道路、橋、堤防の改修、府庁からの注文品の納入。 (第8条)課長は頭取に対して可否を弁論する権利を有する。 (第11条)出入りの職人に私邸で応接したり、贈答したり、借金したりすることを禁止する。 こうして藤田商店は本格始動するが、これより先、1人の親友の死に遭遇する。それは山城屋和助(1836-1872)の死である。山城屋は同じ長州、奇兵隊の先輩で商才に富み、維新後は横浜で生糸の商いに成功し、羽振りを利かしていた。そのころ伝三郎は山城屋の商売を手伝っていた。山城屋は同郷の山県有朋に取り入り、陸軍省の予備費を生糸相場で運用し、一時は山県を大いに喜ばしたが、生糸相場の予期せぬ暴落で巨損をこうむる。1872(明治5)年陸軍省の一室で割腹自殺する。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 藤田伝三郎(1841-1912)の横顔 1842(天保12)年長州萩城下に生まれる。1869(明治2)年大阪で軍靴製造を開始、1877(同10)年西南戦争で巨利を占め、1881(同14)年藤田組を創立、社主頭取に就任。1885(同18)年大阪商法会議所会頭、1887(同20)年から各地で鉱山開発に取り組む。1890(同23)年日本初の経済恐慌で苦境に落ち込む。1891(同24)年甥の久原房之助を小坂鉱山に派遣、1893(同26)年合名会社・藤田組に改組、1899(同32)年岡山県児島湾の干拓を開始<64年後の1963(昭和38)年に完成>、1911(同44)年男爵の称号。