聖徳太子と初代法隆寺を巡るミステリー 世界最古の木造建築・法隆寺を歩く
奈良県には世界遺産が数多くありますが、今回はその第1号の法隆寺をご紹介しましょう。 ■法隆寺独特の様式に秘められた謎 奈良盆地の雨水をすべて合流させながら西へ流れる大和川の北岸山裾、奈良県生駒郡斑鳩町に世界遺産「法隆寺」が甍を輝かせています。法隆寺には西院伽藍と東院伽藍がありますが、まずは松林に囲まれた南大門に向かう参道を歩いて、本院ともいえる西院伽藍から訪問しましょう。 法隆寺はJR法隆寺駅からバスやタクシーがありますが、歩いても行けます。南大門をくぐると100mほど向こうに中門が見えますが、この中門は法隆寺独特の造りで、さまざまな推理を呼び小説の題材にも取り上げられてきました。 というのは、ふつうは正面奇数間(けん)であるはずなのに法隆寺の中門は偶数間で、入り口が中央の柱を挟んで二か所開いているのです。両端には仁王様が仏敵を睨んでいるこの中門形式を四間二戸(よんけんにこ)といいます。 東大寺の南大門のように大きくなると五間三戸で入り口が三か所になりますが、やはり奇数間で偶数間の門は法隆寺独特の奇異な形式なのです。 これがなぜなのかという問いに対してはなかなか解答が難しいのですが、頑張って法隆寺の建立にまで遡って考えてみましょう。 実は現在の法隆寺が「聖徳太子建立の伽藍なのかそうじゃないのか」で大論争が続きました。しかし今ではこの法隆寺は再建されたものであることが確定している、といっていいでしょう。 西院伽藍の南西方向に若草伽藍跡という古代の寺跡が発見されています。伽藍配置は大阪の四天王寺と同じで、南北一直線に門・塔・金堂・講堂が並んでいたようです。そして大量の焼け瓦や土壁などの廃材が発見されています。 『日本書紀』の天智紀に「西暦670年夏4月の夜、法隆寺のすべての伽藍が全焼した」という記事があります。おそらく夏のはじめ、夜中に強烈な寒冷前線が通過して斑鳩地方が大雷雨に襲われたのでしょう。落雷で若草伽藍と呼ばれる初代法隆寺は全焼してしまったようです。 斑鳩には聖徳太子とその一族が建立した法隆寺、中宮寺、法起寺などがあります。この寺はすべてが今でいう大学のような最高学府の学問寺で、斑鳩でさまざまな最新文化を学んだ若者たちは学業修了ののち、故郷に帰るなど各地に戻って国家の近代化に貢献していたことと思います。 その優秀なOBたちが、母校ともいえる斑鳩の寺の象徴である法隆寺を再建するために各地から集結したのではなかったでしょうか?そして見事な西院伽藍を完成させたのだと私は考えています。 彼らOBにとって聖徳太子はお釈迦様に匹敵するほどの聖人、もしくはお釈迦様の代理人のように尊ばれていたでしょう。五重塔とはそもそもお釈迦様の供養塔ですから、それに並んで金堂を「聖徳太子をたたえる仏殿」として建築されているように思えるのです。 その理由は、聖徳太子がプロデュースして鞍作止利(くらつくりのとり)工房が製作した「玉虫厨子」の宮殿(くうでん)が、西院伽藍の重要堂宇のデザインに大きな影響を与えているとしか思えないからです。その最も象徴的な部分が軒を支える雲形肘木(くもがたひじき)と二重基壇だといえます。 五重塔は最上層が一層部分のちょうど半分の底面積になるほど大きな逓減率(ていげんりつ)の設計です。高さは約31mで、隣に立つ金堂のおよそ倍の高さになります。一方金堂は二層構造で高欄が四周を巡り、軒の深いほぼ正方形の珍しいデザインです。どちらも雲形の肘木を採用していて、明らかに玉虫厨子を意識していると私は思います。 そして金堂の外陣(げじん)に入って仏像を拝みましょう。ただ拝むのではなく、東側の薬師如来坐像と中央の釈迦三尊像のお顔をしっかり拝見してください。 深く立ち入って考察する力量が私にはありませんので簡単に申しますと、東側の薬師如来坐像の方が法隆寺仏像群に共通する特徴ある目元のお顔立ちに見えます。中央の釈迦三尊像のお顔は、まさに飛鳥大仏に共通するお顔立ちに見えてなりません。つまり釈迦三尊像の方が古いと思えるのです。 初代法隆寺のご本尊だった薬師如来坐像は670年の大火災で焼失して、今の坐像は現在の法隆寺金堂が完成したと思われる680年ごろに再像されたのだと私は観ています。 中央の釈迦三尊像は斑鳩のほかの寺に安置されていたので現存し、金堂完成とともに施入された鞍作止利工房の古仏だと考えます。 そもそも玉虫厨子も明日香村の橘寺にあったものが法隆寺に遷されているのですから、再建された法隆寺には聖徳太子由来の宝物がこぞって施入されたのだと考えられます。 若草伽藍跡が聖徳太子創建の初代法隆寺で、現存法隆寺が再建されたものだという証拠はほかにもあります。法隆寺の伽藍MAPをご覧ください。 西院伽藍と東院伽藍をつなぐ200mほどの道の軸線は、カクンと大きく北に対して20度ほど西に傾いています。実際に西院伽藍の東門をくぐってください。道は大きく左に傾いています。若草伽藍跡もまったく同期して西に20度軸線が傾いて建立されていました。 この西に20度傾いた理由は、斑鳩宮に住まわれた聖徳太子が首都である飛鳥に通うための直線道路がそのまままっすぐ飛鳥に直結するからなのです。この道跡を太子道、とか筋違道(すじかいみち)と呼びます。 聖徳太子が建立した初代法隆寺の寺域や住まいの斑鳩の宮は、飛鳥にまっすぐ向かう20度西に傾いた設計がなされていたのです。現在の法隆寺は磁方位に対して西に4度傾いていますが、これは南北を基準にしているといって良いでしょう。 つまり、現在の法隆寺は大化の改新以降の地割規定に則って設計されているのだと考えざるを得なくなりますので『日本書紀』の記述が正しく、680年を示す紀年銘のある幡(ばん)や五重塔四面具の完成が記録されている西暦711年を信用するに足ると考えるのです。 とはいえ、世界最古の木造建築物であることに間違いはありません。法隆寺西院伽藍のドッシリとしてすっきりとした3D空間美を感じてください。そして軸線20度の傾きを実感しながら東院伽藍夢殿の救世観音像も、春と秋に御開帳がありますので是非拝んでみてください。
柏木 宏之