落合博満43歳「私の時代は終わった」…落合がショックを受けた“23歳の天才バッター”「オレは終わっていた選手なんだ」日本ハムで涙を見せた日
「私の時代は終わったと実感した」
昭和の三冠王と平成の安打製造機――。 落合がパ・リーグを離れていた10年間で、選手の顔ぶれは様変わりしていた。その世代交代の筆頭格が、神戸に颯爽と出現したひとりのヒットメーカーだった。年間210安打を放った1994年のイチローフィーバー以降、背番号51は3年連続の首位打者とMVP。さらには“がんばろうKOBE”の象徴となり、95年にオリックス初のリーグ優勝、96年には日本一へと導き、日産自動車やアサヒビールのCMにも出演。平成球界を代表するスーパースターへと駆け上がっていた。 1997年5月3日、日本ハムの本拠地でもある東京ドームのプリズムホール前には、イチローをイメージした衣料品やグッズを取り扱うイチローカジュアルの専門店「I(アイ)=オールライト」がオープンする。まさに時代の寵児でもあった背番号51と、巨人をリストラされた“中年の星”の顔合わせは話題を呼び、落合が移籍第1号を放った4月18日のオリックス対日本ハム戦は、当時のパ・リーグとしては異例のフジテレビのゴールデンタイムで生中継されていた。百戦錬磨の落合にとっても、日本ハム移籍後に遭遇したイチローの規格外の打撃は衝撃だった。 「私は2年余り彼のバッティングを間近で見て、技術の高さもさることながら、これが近代野球と言うのなら私の時代は終わったと実感させられた」(野球人/落合博満/ベースボール・マガジン)
「おれは終わっていた選手なんだ」涙を見せた日
国税庁の高額納税者番付プロスポーツ部門で「1位落合、2位イチロー」が発表された翌日の5月17日、近鉄戦で落合はタイムリー含む2安打を放ち、打率.339まで上昇させる。首位打者はイチローで打率.364。そして、両者はこの時点で安打数「43」とリーグトップタイで並ぶのだ。23歳の天才バッターと最多安打争いを繰り広げる43歳の打撃職人。本塁打を捨て、ヒット狙いに徹しているかのような打撃術に見る者を唸らせた。だが、ここが落合の19年目シーズンのピークだった。 セ・パ両リーグ1000安打にあと3本と迫ったオレ流は、記録達成まで9試合を要してしまう。5月28日のダイエー戦、初回に若田部健一が投じた139キロの速球を逆らわずにとらえて一、二塁間を抜くヒットを放ち、大杉勝男以来、史上2人目の偉業にたどり着く。 一塁上でヘルメットを取り、記念の花束を東京ドームのファンに向かって穏やかな表情で掲げてみせる背番号3。試合後、「パで9年、セで10年、長いことやっていれば、いろんなことがある」と語るオレ流の目は赤く潤んでいた。 「(巨人を自由契約になり)おれは終わっていた選手なんだ。雇ってくれた日本ハム球団に感謝しないとな」(日刊スポーツ1997年5月29日) <続く>
(「ぶら野球」中溝康隆 = 文)
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