中国BYD、絶体絶命から新エネ車の世界王者へ 創業者が振り返る30年の経営史
2024年11月18日、中国電気自動車(EV)大手の比亜迪(BYD)は深圳・汕尾特別合作区にある小桃生産基地で1000万台目の車をラインオフするとともに、創立30周年という歴史的な瞬間を迎えた。 1000万台目の車をラインオフした記念写真など、もっと見る BYDは1995年にバッテリーメーカーとして創業し、2008年にEVを含む新エネルギー車(NEV)の生産を始めた。23年8月、500万台目を生産するまでに15年を要したが、500万台から1000万台まではわずか15カ月で達成した。新エネ車の累計生産台数1000万台を実現した世界最初の自動車メーカーとなり、中国自動車産業の急速な発展を物語っている。 18日、BYD創業者の王伝福会長は会社創立30周年記念大会で、自動車産業への参入の決定をして以来の歩みを振り返った。 以下はそのスピーチ全文である。(編集あり): 本日、BYD設立30周年と新エネ車1000万台のラインオフ完を祝うために、ここで皆さんとお会いできることを大変嬉しく思います。 30年前、私はまだ北京の非鉄金属研究所にいましたが、1993年に深圳に派遣され、電池子会社の社長になりました。北京から深圳に来て、まるでまったく新しい世界に足を踏み入れたようでした。 周りの多くの友人は自分でビジネスを始めており、誰もがリスクを取って新しいことに挑戦する姿に私は奮い立たされました。 私もここで何か事業を成し遂げたいという思いがありました。もし深圳に来ていなければ、起業にチャレンジしようと思わなかったでしょうし、今のBYDもなかったでしょう。 90年代のころ、携帯電話を持つことは非常におしゃれなことで、携帯電話自体にニッケル電池が付属しており、通常はさらに1~2個の交換用の電池が必要でした。私は、将来のニッケル電池の需要は非常に大きいと判断しました。当時、国産のニッケル電池は非常に少なく、ほとんどが日本からの輸入品でした。 30年前の今日、1994年11月18日、私は20人の小さなチームを率いて起業しました。 当時、ニッケル電池を作る最も簡単で効率的な方法は、日本から高度な自動化生産ラインと生産設備を購入することでしたが、何しろ私たちは起業したばかりで、資金があまりなかったため、購入する余裕はありませんでした。 色々考えた結果、自動化された生産ラインの工程を手作業でできるように分解し、手作業+治具(組み立てのための取り付け器具)で完結させることにしました。最終的に初めてニッケル電池の生産ラインを作りましたが、生産ライン全体の投資額は日本企業の4分の1か5分の1に過ぎませんでした。しかも、作られた製品は日本企業とほとんど変わりませんでした。 このようにして、私たちは「小銃」で「機関砲」に打ち勝ち、ニッケル電池の販売で世界首位になりました。 やがて、携帯電話の黄金時代を迎えました。 リチウムイオン電池はニッケル電池より軽く、寿命が長く、使い勝手が良いという特徴があります。 携帯電話では、ニッケル電池に代わってリチウムイオン電池が新たな未開拓のブルーオーシャン市場となりました。 当時、リチウムイオン電池の技術的なハードルは非常に高いもので、中国ではまだ産業化が実現しておらず、技術力が不足していました。 そのような状況下で、ブレークスルーを目指し続けるBYDの技術者がいました。 その結果、BYDは中国で初めてリチウムイオン電池の量産化に成功しましたが、当初の製品は品質がなかなか安定しませんでした。 そこで私たちは中央研究部を設立し、修士や博士といった多くの技術人材を招聘しました。また大量の研究開発装置も買いました。当時、最も高価だったのはX線光電子分光装置(XPS)で、我々の創業資金の全額を上回る1台370万元(現在の7700万円)近くしたことを覚えています。 私たちはその装置を購入した中国初の非国有企業で、社内にはそれを扱える人材がいませんでした。そのため、清華大学の教授を招いて教えてもらいました。 こうして、自己放電、サイクル寿命、電解液の性能など、一連の問題を解決していきました。 私たちの製品はますます安定し、初めて米モトローラなどの当時の国際的なメーカーに認められ、わずか数年でリチウムイオン電池のシェアは世界市場のトップクラスに躍り出ました。 私たちは、電子化の波が来たときには、それに乗じて電子機器産業に参入し、自社で研究開発と設計、部品のOEM(相手先ブランド製造)から製品ソリューションの提供へと発展していきました。モトローラに続き、フィンランドのノキアやドイツのシーメンスといった一流メーカーからの受注も獲得しました。急速な成長を遂げてきた創業の道のりは、エンジニアに技術開発に大胆に取り組ませたことが正しかったことを証明しています。