見本もイメージもなし 「転がって、素早く起きろ」の指示から生まれた東洋の魔女「回転レシーブ」誕生秘話
パリ五輪に向けた連載「Messages for Paris」(毎週火曜日更新)の第4回は、世界を驚かせた日本の技として、1964年東京大会のバレーボール女子日本代表の「回転レシーブ」にスポットライトを当てる。ライバル、ソ連(現ロシア)の強打に対抗して、「東洋の魔女」が、まさに一丸となって結集した技が、世界の頂点につながった。ルール変更、体格差に屈しない心が、必殺技を生んだ。次回は2008年北京、21年東京五輪金メダリストのソフトボール女子日本代表上野由岐子(41)=ビックカメラ高崎=の「投球術」を掘り下げる。 60年代から70年代にかけて大人気となったスポ根の女子バレーボールドラマ「サインはV」、同アニメ「アタックNO.1」でも、回転レシーブのシーンは何度も使われ、バレーを知らなくても、その言葉は日本中に浸透していた。それほど、インパクトのあるプレーだった。 回転レシーブが初めて世界の舞台で披露されたのは、東京五輪の2年前、62年10月、モスクワでの世界選手権だった。相手のスパイクを腕を伸ばし、ボールに当てると、そのまま回転し、すっと立ち上がり、次の動きへ体勢を整える。今までなかったプレーに世界が驚いた。「度肝を抜かれた」「どんな練習をしたら、あのプレーができるのか」。大松博文監督は、外国チームの監督らから質問攻めに遭った。 回転レシーブの名手だった東京五輪代表、内田(旧姓・藤本)佑子さん(81)は「最初から回転レシーブの形があったわけではなかった。どうやったら、レシーブして、早く次の動作にいけるだろうか、練習で試行錯誤を繰り返しながら、監督と選手が一緒に作り上げていったものなんです」。 60年の世界選手権に初出場した日本は、ソ連に次いで2位だった。9人制でのバレーが中心だった日本が、初めて欧米で行われていた6人制に臨んだ大会だった。準優勝と大健闘したものの、世界一を目指す大松監督は、同じ9メートル×9メートルのコートで、9人制なら取れるボールも、6人制ではレシーブできなくなることを痛感した。 それから大松監督は、拾えそうもないボールを、どうしたらうまく取れるかを24時間考えていた。形が決まらないながらも、62年1月から練習は始まった。「何でもいいから、ゴロゴロ転がって、素早く起きろ」と監督は指示した。だが、監督にイメージはあっても、その手本を示すことはなかった。選手たちは、監督が次から次へと投げるボールを懸命に追ったが、なかなか納得してもらえるプレーはなかった。 選手は戸惑うばかりで、ついに、河西昌枝主将は、「これはできません」と、選手を代表して監督に抗議した。だが、「人と同じことをやっていても勝てない。できないことをやるんだ」と「鬼の大松」と言われた指揮官は頑として、聞き入れなかった。 マットの上で転がりながらの練習が続く中、斜め前に回転することで、体勢をすぐに立て直すことができることが分かってきた。次にはスピードをつけ、さらにボールを上げながら回転する。その後は、体育館のフロアに場所を移した。「もうアザだらけでした。みんな、ひじや腕、腰、背中など、痛い、痛いと言っていました」と千葉(旧姓・松村)勝美さん(80)は、その練習の過酷さを振り返った。 大松監督が「痛くない方法を考えろ」と言うと、「事務室の自分の椅子から座布団を外してきて、腰や背中に縛り付けたり、肩やパンツにタオルを挟んだりして練習に臨みました」と千葉。その特訓も3か月を過ぎると、形になってきた。半年たった頃には、多くの選手が回転レシーブをマスターできるようになった。 メンバー最年少だった田村(篠崎)洋子さん(79)は、五輪前年の63年、日紡貝塚に入社してすぐに、回転レシーブの練習に取り組んだ。他の選手はもうスムーズにこなしていた。「その動きを参考にしました。変な転び方をすると、どこかを打つんですが、きちんと回転すると痛みはなかった」と習得までにそれほど時間はかからなかった。 「回転レシーブは、初めからレシーブの手の角度はこうだ、回転の仕方はこうだというのはなかった。それが、完成して見本ができたからこそ、その後の選手たちはその動きをまねてできるようになったんです。フィギュアスケートの回転技や体操の技なども同じだと思う。先駆者があってこそです」と内田さんは力を込めた。回転レシーブは、大松監督と選手たちの共同作業の末に完成させたまさに芸術作品だったのだ。 64年10月23日、東京・駒沢屋内球技場。ソ連と金メダルをかけた一戦は、66・8%(ビデオリサーチ調べ)の驚異の視聴率を記録、日本中が見つめた。東洋の魔女たちは、ソ連のエース、リスカルの強打などを回転レシーブで拾いまくった。2セットを先取した日本は、第3セットも14―9(当時はサイドアウトありの15点先取制)とマッチポイントを迎えたものの、ソ連の粘りに14―13と詰め寄られ、会場はじりじりした雰囲気に包まれた。 6度目の金メダルポイントだった。宮本恵美子のサウスポーから繰り出されたサーブが、ソ連の守りを乱し、オーバーネットを誘った。笛が鳴る。一瞬の静寂のあと、大歓声と拍手が東洋の魔女に降り注いだ。河西主将がこらえきれず、顔を覆った。他の選手も泣いた。胴上げでも涙を見せなかった「鬼の大松」も、表彰式に向かう選手たちを見つめながら、思わず目頭を拭った。1日1000本以上のボールを投げたその右肩は異様に盛り上がっていた。 翌日のスポーツ報知は1面で、三島由紀夫の観戦記でこう述べている。 「日本が勝ち、選手たちが抱き合って泣いているのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあったが、これは生まれてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である」 日本中が喝采を送った。(久浦 真一) ◇1964年東京五輪バレーボール女子日本成績 ▽64年10月11日 日本3―0米国 ▽同12日 日本3―0ルーマニア ▽同14日 日本3―0韓国 ▽同18日 日本3―1ポーランド ▽同23日 日本3ー0ソ連 15―11 15―8 15―13 ※6チーム総当たりのリーグ戦で行われ、日本が5戦全勝で金メダル。2位・ソ連、3位・ポーランド。サーブ権を持つチームが得点になるサイドアウト制の1セット15点の3セット先取制で行われた。 ◆大松 博文(だいまつ・博文) 1921年2月12日、香川・宇多津町出身。関学大卒。54年、ニチボー貝塚監督に就任。60年世界選手権にニチボー貝塚の単独チームで臨み、2位。61年の欧州遠征で24戦全勝を成し遂げ、「東洋の魔女」と呼ばれる。64年東京五輪で金メダル。68年、参院選に立候補して当選。78年11月24日、ママさんバレーの指導で訪れていた岡山・井原市で急死。享年57。
報知新聞社