父亡くしジミーの名で海を渡った青年が立ちすくんだ反基地運動、答えなき問い…米陸軍兵となったウチナーンチュが向ける厳しい目
【沖縄復帰52年】
ドカーン-。1948年8月6日夕。すさまじい爆発音が沖縄・伊江島を揺らした。城山(ぐすくやま)(標高172メートル)の倍の高さまで黒煙が立ち上っていた。「ただ事ではない」。友人と海水浴をしていた7歳の幸地(こうち)達夫は、煙が上がる方角に走った。泣きながらリヤカーを引く母サダがいた。荷台には頭や手足が吹き飛んだ遺体。「お父さんだよ」。米軍の通訳を務め、この日は沖縄戦で命を落とした伊江島出身者の遺骨を受け取るために港にいた父良一=当時(36)=の変わり果てた姿だった。 1951年5月、一緒に暮らす米兵と記念写真に納まる主和津さん(中央、本人提供) 住民ら107人が亡くなった米軍弾薬輸送船の爆発事故。一家は大黒柱を失い、子ども4人を抱えて極貧生活に陥った。ソテツやネズミ、イモのつるで飢えをしのぐ。事故から2カ月たって生まれた末弟は栄養失調で亡くなった。生きていくのに必死だった。 ■「沖縄に戻れる」入隊志願 2年後、米軍から「子ども1人なら面倒を見る」との申し出を受ける。選ばれたのは次男の達夫。沖縄本島の米軍宿舎に預けられ、学校に通った。米兵からジミーと呼ばれてかわいがられた。靴磨きでチップを稼ぎ、実家に仕送りした。 16歳になった57年、空軍兵の養子に。翌年、養父の転勤に伴いジミー・シュワルツ(主和津)の名前で米本土に渡り、60年に19歳で米陸軍に入隊した。伊江島の家族のことが頭から離れず「軍人になれば、沖縄に戻れる」と志願した。 韓国、ハワイ…。ベトナムの戦地にも2度派遣された。そして67年。ついに沖縄赴任がかなう。 沖縄は15日、72年の本土復帰から52年の節目を迎えた。ウチナーンチュ(沖縄人)と米国人の双方の目で古里を見つめてきた主和津さんは今、何を思うか。 ■赴任後の沖縄で直面した現実 本土復帰からさかのぼること5年、米陸軍兵として沖縄本島に赴任した。やがて統治のトップ、高等弁務官を側近として支える特技官を任される。弁務官の視察に同行して地域の要望を聞き、学校や公民館、道路の整備を調整した。「自分はウチナーンチュ(沖縄人)。古里のために働ける」。沖縄方言を話せる特性を生かし、仕事に没頭した。 思いと裏腹に、沖縄は反基地感情が高まっていた。68年に米空軍嘉手納基地に爆撃機が墜落、炎上。69年には米軍施設の毒ガス漏出が発覚する。米軍人・軍属の飲酒交通事故や犯罪が頻発。まともに処罰されず、無罪判決が相次いだ。69年11月、日米両政府は沖縄返還に合意したが、基地は沖縄に残り続けることが決まる。住民の忍耐は限界に達した。そして-。 ■「米軍と沖縄の橋渡しに」 車道を埋め尽くした5千人の怒りを前に、立ちすくむしかなかった。70年12月20日。米兵の車が沖縄の男性をはねた事故をきっかけに、住民が米軍関係者の車70台以上を焼き打ちした「コザ暴動」。米軍は住民に催涙弾を発射した。死者こそ出なかったが、90人近くが負傷した。 高等弁務官のランパートと極秘裏に現場に急いだ。当時30歳。ウチナーンチュとして住民の心がよく分かった。「どうしたら良い方向に持っていけるだろうか」。答えのない問いを心の中で繰り返した。 「米軍と沖縄の橋渡しに力を尽くしたい」。本土復帰の直前に軍を退役。その後も嘉手納基地に勤務し、渉外業務などに携わる。基地内外の人が参加する障害者スポーツ大会を立ち上げ「沖縄のことを常に考えてほしい」と軍幹部の住宅の屋根を沖縄伝統の赤瓦に替える取り組みを進めた。 ■ヤマトンチュへの厳しい目 今年4月18日。83歳の主和津は、嘉手納基地にある沖縄戦の降伏文書調印式が催された広場に赴いた。25年前、空き地だった場所を自ら設計して整備した空間だ。「平和がずっと続いてほしい」「沖縄の人が二度と食べ物に困らないように」。そう願い、常緑樹のイブキと、かつて命をつないだソテツを植えている。 「戦争がなければ、終戦後に米軍が来て爆発事故で父親が死ぬことも、家族と離れることもなかった」 復帰52年の節目を前に、改めて戦争への憎しみを語った。米国に対しては「救ってくれた」と感謝。「私も含め、貧しい時代に基地のおかげで生活できた人はたくさんいた。現在も米軍の世話になっている人は少なくない」。古里の歩んだ苦難と、歴史に翻弄(ほんろう)された自身の半生が素朴な言葉からにじみ出た。 在日米軍専用施設の7割が集中し、1人当たりの所得は最低、子どもの貧困率は全国平均の倍。日本政府が掲げた「本土並み」はまだ実現していない。 ウチナーンチュで米国人の主和津。ヤマトンチュ(本土の人)には厳しい目を向けた。「復帰から半世紀がとうに過ぎても、戦争で多大な犠牲を払った沖縄としっかり向き合っていない」 (敬称略)