【証言・北方領土】国後島・元島民 池田英造さん(1)
富山から祖父母が島へ 親は漁、祖父母は馬を育てていた
――両親の代に、国後に来ましたか。 祖父母が富山の人なんで。祖父が富山の農家生まれなのさ。農家の三男坊。当時、農家でも、そんなに人手要らないわけでしょ。だから、三男坊になると、要らないようなもんで、ほかに働きにと出たのね。それが転々として北海道に渡って、人に使われて漁師しながら、流れ流れて島へ行ったみたい。 ――国後でも、祖父母は漁師だったのですね。 昆布から、雑業含めて。そして、自分の息子らが手伝うようなってから、息子らに漁業譲って、祖父母は山へ入って畜産業やりだした。当時、馬っていうのは人気いかったからね。あまり手もかかんないし、そして、いい馬つくると軍に高く売れたわけでしょ、軍馬ということで。育て方では結構いいお金んなったみたいなんでね。 ――両親は漁で祖父母は馬を飼育していた。当時、兄弟は何人いましたか。 数えないとわかんないな。6人兄弟だね。終戦時、引き揚げる当時は6人いました。 ――池田さんは何番目ですか。 2番。 ――漁の人手としてカウントされていたのではないですか。 6年生ですから、手伝いっていう手伝いはね、大したできなかったんですけども、忙しいときには、こういう仕事って子供向けでもできる仕事っていうのありましたからね。そういうことは結構手伝いましたよね。
小学4年に日露戦争の美談聞いたのに…なぜロシア人が不可侵条約破ったという思い
――島で一番覚えてる思い出は何かあります。 印象残ってるのね、戦争に負けてからね。小学校4年生のときに、先生が授業時間にね、昔は日本とロシアと戦争したぞ、日露戦争ってね、あのときの話をしたのね。そして、日本は乃木大将、陸軍は乃木大将、海軍は東郷平八郎。そして、乃木さんがロシアと戦争やって勝った。勝ったときに、ロシアの大将がね、ステッセルっていう大将だった。その大将呼びつけたんだって。そしたら、そのステッセルがロシアの兵隊らに、「俺、乃木に呼ばれたんで行くけども、帰ってこれないよ」って。「あと頼むぞ」っていうことで来たみたい。 そして、乃木さんと会っていろいろ話したらね、乃木さんが「この戦争ではお互いに兵隊を犠牲にした。だから、こういう戦争はね、やるべきでない」って。「俺も息子を亡くした。だから、ロシアと日本は戦争をしないようにしたいもんだ」っていう話したんだって。そして、最後に、ステッセルっていう向こうの大将に「あんた、帰って、日本と戦争しないようにしようっていうことで運動しなさい」って帰したの。そのときステッセルっていう大将が「何て日本人ってすばらしいんだろう。てっきり殺されると思ったのが殺されないでね、帰してくれた」。日本人のすばらしさっていうのをね、帰ってから、こうみんなに話をした。そういう話を、小学校4年生ころだから、まだ戦争のさなかだよね。あの先生、すばらしいことをね、話してくれたなと思うね。 だから、そういうのが胸にあったのさ。日本とロシアは乃木大将とステッセルの間でね、人間の友情といいますか、結ばれてるんで、戦争ないだろうという安心感みたいのあったよね、子供ながらにね。それがたまたま、大東亜戦争始まった。最後ロシア、当時ソ連だよね、日本と戦争しない条約結んでるにもかかわらず攻めてきたわけでしょ。北方領土は攻められたことない記憶なんだけども、いざ終戦になった。そうしたら戦争で得た領土でしょ。これにはやっぱり抵抗感あったよね。何で。乃木さんとステッセルがね、友情で結ばれたの、何で、そういう形でっていうね、抵抗感はあったよ。