フランスが世界をリードした時代 坂道発進が苦手 S600クーペの思い出【復刻・徳大寺有恒「俺と疾れ!!」】
2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺 有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2013年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介する。フランス車の時代、坂道発進が苦手な読者へ、今だったらあり得ない?車内での喫煙マナーについて……。氏の視座は過去、現在、そして未来へと自在に駆け巡る。(本稿は『ベストカー』2013年9月26日号に掲載したものを再編集したものです/著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)。
■フランスがリードした自動車
自動車のスタイルの変遷はまことにおもしろい。1920年代から30年代にフランスのパリにあるカロシエ(つまりカロッツェリア)はほんとうにお客の好みでボディを作っていたが、その中でひとつの流行があった。"フランヴォワイアン"(炎のような)というものだ。 当時のカロッツェリアはほとんどがパリにあり、その下町で高級車のボディが専門の職人の手により作られていた。フィゴーニなどはその代表で、シャシはタルボラーゴ、サルムソン、オチキスなどが選ばれていた。このパリのカロッツェリアの作品がパリサロンなどを飾っていたのだ。 当時の最高級車はイスパノ・スイザあたりだが、まだ自動車は一般に取り引きされる国際商品にならず、ほんの一部の金持ち相手のビジネスだった。イスパノはパリに工場を持ち、世界中のミリオネアを相手にしていた。 また当時のボディスタイルもまたパリのカロシエがリーダーだった。当時クルマといえばタルボラーゴ、サルムソンなどフランス車が多かったからだ。イタリアにカロッツェリアが誕生するのは40年近くを経てからである。 フランスはファッションリーダーであると同時にクルマのファッションもリードしていたのである。しかし多くのメーカーが、第五共和政を誕生させ、ルノーを国有化したことでも知られるド・ゴール大統領によってつぶされてしまうのである。 そして台頭したのが外貨の欲しい英国車だ。この国は"輸出か死か"というスローガンで輸出に命をかけ、ジャグァやMGを世界中に売ったのだ。 敗戦国ドイツもドルが欲しいことはいうまでもなく、そこからさらに20年遅れて日本車が北米で売り始めるのだ。生産技術で遅れをとった日本はそこからダットサンやトイペット(はじめはそう呼ばれた)を売ったのである。とにかくどの国も強いドルが欲しかったのだ。 ドイツと違って日本は安く作る。客の好みに合わせて作るという日本独特のビジネスを展開し、巨大なGMやフォード、クライスラーのビッグ3を窮地に追い詰めるのだ。 アメリカが悲鳴を上げ、日本からの輸入に代え米国内で日本車を生産することで手を打ったが、この貿易の摩擦は今も続く問題となっていることは、TPP交渉の大きな焦点のひとつが自動車にあることからもわかるはずだ。