エネルギー小国日本の選択(7) 世界で動き出した原子力開発
アメリカも1957年、同国初の原発、シッピングポート発電所が稼働した。契機となったのは1953年のアイゼンハワー大統領による国際連合での演説「Atoms For Peace」だ。原子力の平和的な利用の気運が高まり、1954年に原子力法が改正され、企業が原子炉を所有、運転できるようになった。なお、オブニンスク、シッピングポートの両原発は既に運転を終えている。 抜きつ抜かれつの米ソが先導する形で原子力開発が進み、イギリスやフランスが続いた。マンハッタン計画に参加していたイギリスは1946年に国防と発電技術の向上を目的とした原子力研究所が発足し、原発先進国の道を歩んだ。フランスは1945年には元大統領で当時、臨時政府主席だったシャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle;1890~1970年)の指揮下で原子力庁が設けられた。軍事利用もにらみながら、1963年に原発が稼働した。このほかベルギー、イタリアでも1960年代に原発の運転が始まるなど、ヨーロッパでの動きが目立った。 このように第2次大戦の終結とほぼ同時に、各国が原子力の研究にしのぎを削っていた。その多くが軍用を是としつつ、電源として原子力を活用するといった二大目的を持っていた。
禁じられた日本での原子力研究
一方の日本は、戦時中も進めていた原子力関連の研究が、敗戦後1952年のサンフランシスコ講和条約の発効まで、連合軍により禁じられた。 前回触れた通り、人口増や家電の普及に伴う電力不足の解消は急務だった。解禁後は雪崩を打ったように原発をめぐる論議が加速する。 1955年に原子力基本法が成立し、翌1956年に原子力委員会が設置された。初代の委員長は読売新聞社主で内閣官僚も務めた正力松太郎(1885~1969年)で、熱心な原発推進論者だった。また1957年には、原子力の平和利用の促進や、軍事転用の防止を掲げる国際原子力機関(IAEA)が発足し、日本も原加盟国となった。 法制度や組織化が整うとともに、日本は最初の原発建設へと力を注いでいく。1956年には実験を主導する日本原子力研究所が茨城県東海村に設けられた。1963年に実験炉で最初の発電に成功した。10月26日の出来事で、この日は「原子力の日」とされている。 技術とノウハウが蓄積され、商用化への期待も高まっていった。1957年には運営主体となる日本原子力発電、通称「日本原電」が電気事業連合会の電力9社と特殊法人の電源開発による出資で発足した。1966年に国内初の原発、東海発電所の運転を始めた。 原子炉はイギリスで開発された黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉(GCR)を採用した。当時、炉型の採用をめぐって、アメリカ製かイギリス製かで議論があったが、GCRは割高で出力が小さいとされ、国内で採用したのは東海原発のみだった。その後導入されたのは主にアメリカ製の加圧水型(PWR)と沸騰水型(BWR)だった。