エネルギー小国日本の選択(7) 世界で動き出した原子力開発
夢のエネルギー
原子力研究所の候補地は、神奈川県横須賀市や群馬県高崎市なども挙がっていたが、東海村が誘致合戦を制した格好だ。今も経済産業省では、原子力関連施設が誘致されれば「地域と住民にとって誇りになる」との見方をする幹部が少なくない。 ただ、原子力政策が動き出した1950年代前半、国内世論は原子力の推進に反対する向きもあった。被爆国として原子力に対する抵抗感が強く「時期尚早だ」という声に加え、1954年に起きた第五福竜丸事件が大きな反原子力運動に繋がった。太平洋のビキニ環礁付近で操業中だった漁船の乗組員がアメリカの水爆実験で被ばくした。1人は約半年後に亡くなり、当時「水爆実験で死亡」などと世界中で報じられた。 近年は「NIMBY」(ニンビー)という言葉を耳にすることも増えた。"Not In My Back Yard"(うちの裏庭ではやめて)の頭文字を取ったもので、「施設は必要だろうが、自分の住んでいる地域ではご免こうむりたい」といったことを意味する。公害が社会問題化する中で芽生えた意識の表れで、特にひとたび事故が起きれば取り返しのつかない事態になりかねない原発のような施設の建設計画に際し、地域住民らが反対する理由の1つとされる。
賛成、反対、推進、拒否 ── 。原発は政府や産業界、住民、外国の様々な思惑が交錯し、否が応でも影響力は絶大だ。1957年に東海村の実験炉が初めて臨界に達した時は新聞一面に「けさ五時二十三分」「第三の火ともる」などの大見出しが躍った。 東海原発を皮切りに国内では建設ラッシュに沸いた。1970年に福井県でPWRの関西電力美浜原発1号機が稼働した。そして1971年、事故を起こしたBWRの東京電力福島第1原発1号機が運転を始めた。 関電にとっては、水力発電の「くろよん」の大事業が一段落したのも束(つか)の間、京阪神を中心とした旺盛な電力需要はまだまだ伸び盛りだった。「万博に原子の灯を」と一致団結して工事に取り掛かり、再び難事業を遂げた。「本日、関西電力の美浜発電所から原子力の電気が万国博会場に試送電されてきました」。原発から170kmほど先の大阪万国博覧会(万博)会場に電気を送り、電光掲示板に表示された。当時、入社間もなかったという関電OBは「あの時の興奮は忘れない」と回顧する。未来的な科学技術の粋が集まる万博で、戦後日本の復活ぶりを国内外に印象づけた。 「『ウラン』という燃料をたった1グラム使うだけで、石炭なら3トン分、石油なら2,000リットル分の電気を作ることができる」(関電ホームページより)という夢のエネルギー、原子力は1970年代以降、発電所建設と技術向上が一段と進むこととなる。次回は石油危機も相まって、エネルギー源多様化の議論が高まった時代を見ていきたい。