「このまま1、2年で引退するのかな」日本代表・町田浩樹が振り返る、プロになるまでの歩みと挫折
2016年に鹿島アントラーズユースからトップ昇格し、翌年Jリーグデビュー。2022年にはベルギー1部のロイヤル・ユニオン・サン・ジロワーズへ移籍し、海外挑戦を果たした日本代表DF町田浩樹。育成年代から世代別日本代表に名を連ね、将来を嘱望されて名門クラブの仲間入りを果たした町田だったが、その道のりは決して順風満帆ではなかった。鹿島下部組織時代の指導者である天野圭介氏とともに振り返る、挫折とプロになるまでの歩みとは? 「サッカー」×「学び」に特化した映像メディア『Footballcoach』の特別インタビューを通して、町田浩樹の人生のターニングポイントを辿る。 (構成=多久島皓太[Footballcoachメディア編集長]、写真提供=Royale Union Saint-Gilloise)
客観視して自分に矢印を向けるフットボーラー
天野:マチは今ベルギーに行って何年目くらいになるの? 町田:ベルギーでの生活はすでに2年半が経ちましたが、僕が移籍した当初は三笘薫が在籍していたので、すぐ適応できました。 天野:そうか、それは良かったね。ベルギーでの生活環境や言葉の壁もあっただろうけれど、自分自身で適応していく力が大事なんだろうな。その適応力って、自分で昔から持ち続けていたなと感じているの? 町田:どうなんですかね(笑)。僕はもともと適応力があるほうだったと思います。ベルギーに来てからはさらにその力が試されていますね。生活環境や言葉の違いを受け入れ、そして楽しむことで、自分の成長にもつながっていると実感しています。あとは、感情の波もないので特にそこで悩むこともないのかなと。 天野:マチを最初に見たときに、客観視して自分に矢印を向ける子だなってイメージだった。大人になってプロの舞台や海外に行っても持ち続けていたんだね。
町田浩樹が確信したプロへの道。突如訪れた試練
天野:プロになってやっていけるかもしれないと思い始めたのはいつ頃? 町田:プロへの道を現実的に考え始めたのは高校に入ってからです。その年代から世代別の日本代表にも選出されていましたし、その世代ではトップの自信はありました。高校に入って、高1の最後らへんからトップチームの練習に参加し始めたことで、プロになる環境を身近に感じられるようになりました。このころ頃からプロ入りをだいぶ意識するようになりましたね。 天野:鹿島の練習を見ていても、当然プロだからみんなうまいしそれぞれの選手がメンタリティの部分でもかなり強いなと感じるよね。 町田:トップチームに入ってからはレベルの違いに圧倒されましたね。体格差もそうだし、技術のレベルも、戦術の理解度も天と地の差でした。センターバックの6番手からスタートで、3、4人のケガ人が出てもサイドバックの西大伍さんがセンターバックをやるような状況でしたね。「このまま1、2年で引退するのかな」と思うほどのメンタルに陥りました。 天野:そこから這い上がるきっかけみたいなものはあった? 町田:Jリーグデビューがトップ昇格から2年目なんですけど、デビューして2試合目で前十字靭帯を切ってしまって。そのシーズンは完全に棒に振ってしまいましたが、その時に体を作り直し、プロで戦える体にすることができました。それもあって、3年目の最後のほうから試合にも絡めるようになりましたね。 天野:アクシデントでもあったけど、その間の体づくりがいい方向に向いたのかな。 町田:そうですね。僕は身長が190cmあって、自分の体を自分でうまく操作できていなかったんです。身体操作性はその期間で身についたかなと振り返ると思います。自分の体は自分で操作しないといけないので。 天野:そこでしっかりと自分に向き合えたからこそ乗り越えられた試練だったんだね。