《ブラジル》特別寄稿= サンパウロに「日本ビル」を建設するという夢物語の実現に向けて
「メキシコの日墨学院建設のケース」
1974年から77年までメキシコに駐在した。その時期に日墨学院(LICEO MEXICANO JAPONES,A.C)の建設計画が浮かび上がってきた。当時、駐在員子弟のためのメキシコ日本人学校と日系コロニア関係の学園3校が存在していた。日本人学校も1968年にスタートした時点では44名の生徒数であったが1974年には148名に増加していた。 そこで一つの立派な学校を建設しようということになった。タイミングも極めて良かった。当時の田中角栄首相が、カナダ、メキシコ、ブラジルの3カ国を公式訪問することになったのだが、ブラジルではセラード・プロジェクト、カナダでも具体的なエネルギー・プロジェクトがあったが、幸か不幸かメキシコには具体的プロジェクトが何も存在しなかった。 そこで当時の日本大使館関係者や駐在員社会、コロニア関係者が一致協力し、日墨学院の構想が提案され、日本政府からの100万ドル(当時のレートで3億円)の拠出が実現することになった。当時、日本人学校の理事長で日墨学院建設委員長であった筆者の上司のジェトロ・メキシコの中屋敷正人所長の下でこのプロジェクトにお手伝いすることができた。
建設資金の大枠は、日本政府が100万ドル(3億円)、進出企業が150万ドル(4・5億円)、日系コロニアが50万ドル(1・5億円)と決められ、プロジェクトが動き出した。最終的には日本政府100万ドル、進出企業160万ドル、日系コロニア50万ドル、日本人学校の売却費12万ドルの合計322万ドルとなり、10億円プロジェクトが実現した。 進出企業の分担金のアレンジをジェトロの同僚と一緒に担当したが、大商社、銀行、ニッサン自動車のような大メーカーは一律6万ドル(当時のレートで約2千万円)、その他は、規模に応じて分担金を負担することになった。コロニアの有力者も、次々と寄付の名乗りを挙げられ、松本三四郎さんは、100万ペソ(2400万円)、木村敏正さんは50万ペソ、木村平次さんは40万ペソを寄贈された。 このようにして日墨学院は1977年9月に開校するに至った。打ち合わせ会議のアレンジを担当したが、実現に向けての進出企業や日系コロニアの熱気たるやすさまじいものがあった。ブラジルでも同様な学校を建設する計画もあったようだが、実現に至らなかったと聞いている。 今回の「日本ビル構想」は、規模も相当大きいので参考にはならないかもしれないが、政府―進出企業―日系コロニアの一致協力でプロジェクトを完成に導いた数少ない例として紹介させていただいた。詳細は、毎日新聞社発行『日本メキシコ学院十年の歩み』(1987年)を参照のこと。