『シティ・オブ・ゴッド』容赦なき地獄の暴力映画は、なぜ不朽の名作になりえたか? ※注!ネタバレ含みます
※本記事は物語の結末に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。 『シティ・オブ・ゴッド』あらすじ 1960年代後半、ブラジル、リオデジャネイロ郊外に“シティ・オブ・ゴッド(神の街)”と呼ばれる貧民街があった。絶え間ない抗争が続き、子供たちが平気で銃を手にする悲惨な街で、逞しく生きる少年ギャングたち。ギャングに憧れる少年リトル・ダイスは、3人のチンピラ少年とともにモーテル襲撃に加わり初めて人殺しを経験、そのまま行方をくらます。一方、3人組のひとりの弟ブスカペは、事件現場で取材記者を目にして以来、カメラマンになることを夢見るようになる。それから数年後、身を隠していたリトル・ダイスは名をリトル・ゼと改め、街を乗っ取るために再び現れる。
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「ファヴェーラ」とは、ブラジルで「スラム街」を意味する言葉だ。そしてブラジルの大都市リオ・デ・ジャネイロには、同国最大のファヴェーラが存在する。このファヴェーラで何が起きているのかを世界中に知らしめたのが、傑作『シティ・オブ・ゴッド』(02)だ。公開されるやブラジル国内の映画賞を席巻し、アメリカのアカデミー賞にも数多くノミネートされた。もちろん興行的にも大成功を収め、ここ日本でも、街のギャングたちという題材と、ドキュメンタリータッチの作風、そして群像劇というスタイルから「地球の裏側からやってきた『仁義なき戦い』」として大いに話題になった。公開から20年以上がたった今でも、本作をブラジル映画のベストに上げる日本の映画ファンは多い。いったい『シティ・オブ・ゴッド』の何が我々を惹きつけるのか? この映画のいったい何が特別なのか? 今回は本作の魅力について語っていきたい。 本作の主人公は、ファヴェーラの一角、タイトルにもなっている「神の街」で生きる少年たちだ。写真家を志す心優しき少年ブスカベ(アレシャンドレ・ホドリゲス)を語り手に、神の街で60年代から70年代にかけて、何が起きたかが語られていく。 もともと神の街は政府に見放された者たちの街だった。洪水や貧困で住む場所を失った者たちを、とりあえず住ませておくだけの見捨てられた場所。そんな街だから、当然、警察もロクに見ていないので治安も悪い。とは言え60年代には、強盗・恐喝程度で周囲から一目置かれ、それなりに稼げる有名なギャングになれた。 しかしリトル・ゼ(レアンドロ・フィルミノ・ダ・オーラ)という少年の登場で、状況は一気に変わっていく。 リトル・ゼは殺人にまったく抵抗がない。ちなみにこのキャラクターは実在の人物がモデルであり、スラム育ちではあるものの、家族は犯罪の道には走っていない。まるで突然変異の如く、悪の才能が開花したという。 リトル・ゼは標的を次々と殺しながら勢力を拡大し、ついには薬物の取引にも手を出して、神の街の頂点に立つ。しかし、彼には自分がブサイクだというコンプレックスがあった。ナンパをしても失敗続き。いつからか、その怒りは街で評判の“二枚目マネ”という、そのまんまな異名取る男マネ(セウ・ジョルジ)に向けられる。リトル・ゼは街中でマネを見かけるたびにボコボコにして、ついには恋人をレイプし、さらに家を銃で撃ちまくって家族を殺した。マネは遂にギャングに身を投じて、本格的にリトル・ゼと抗争を始める(なおマネを演じたセウ・ジョルジは母国では大人気歌手であり、リオのパラリンピックのセレモニーで思い切り歌っている)。 マネとの抗争が始まると、リトル・ゼは武装を強化。手下の子どもたちにもお菓子感覚で銃を配り始める。10代や20代、下手をすればもっと幼い子供たちが、ギャングになって、銃を持って殺し合う。子どもたちがオモチャのように銃を持って、遊びの延長で殺したり死んだりする。目を疑う光景だが、この映画はノンフィクション小説を原作としており、一部脚色しているものの、基本的に映画で描かれていることは実際に起きたことだ。 子どもが殺し合っているだけでもビックリなのに、彼らが手にする銃器の供給源は……なんと最悪なことに、警察なのである。リトル・ゼは薬物を売り、その金で警察から銃を買い、相手組織の人間を殺す。もちろん相手組織だって黙っていないから、リトル・ゼはさらに薬を売って、もっと強力な銃を集める。警察は儲かるから、もっと銃を売る。何かと話題の〇〇〇県警も裸足で逃げ出す最悪の負の連鎖である。本作はこの事実をドキュメンタリー映画のようなタッチで描いていく。