「コアがない」日本と日本人の特徴……これらは本当に悪いことなのか?
日本の中心には何があるのか
これを、丸山真男の言葉で言うと、「無限抱擁」と「無自覚的雑居」の国。河合隼雄の言葉で言うと、「中空構造」。内田樹によると「日本文化には原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しない」。 図に描くと以下の通りです。アメリカの中心には愛と自由があるのに対し、日本の中心には無常・無我・無私があるのではないか。
アメリカの宗教は基本的にはキリスト教。キリスト教は愛の宗教です。汝の隣人も敵も愛せよ。そして、アメリカは自由の国。アメリカは自由のために戦う国。アメリカ人はそう思っています。つまり、アメリカという国は、愛と自由というコアを持っていて、それを皆が共有しているから、一致団結しています。 これに対し、日本の中心にはコアがないのではないか、と思われがちです。 コアがないから、先ほどの、 (1)日本人には裏表がある (2)日本人は考えをはっきり言わない (3)日本人は必要以上に謝る (4)日本人は人の目を気にする (5)日本人は決断が遅い (6)日本人は意味もなくニコニコ笑う (7)日本人は独立心、自尊心、自己統制感が低い などの特徴があるのではないか。しかし、何もないわけがない、とよく見てみると、無常、無我、無私といった、なんだか、あるのだかないのだかわからないような、「無」のつく言葉がはいっている、というわけです。 無常とは、諸行無常。すべてのことは移ろいゆく。水の流れのように。だから、常に正しいものはないし、常に栄えるものもない。 無我とは、仏教の諸法無我。すべてのものごとの原因は、自分ではない。もしくは、実体がない。 無私とは、私心を捨てた献身の心。武士道や儒教における主君や上司に仕える時の心がけの場合もあるでしょうし、現代日本の道徳観にもつながります。 いずれにせよ、アメリカでいう愛と自由のような、中心的なスローガンはむしろなくて、物事は移ろい行くし、自分もない、私心もない、つまり、中心がない。中心がないことをこそ、よしとする、ということです。 そして、中心がないから、何でも受け入れられる。 たとえば、中心に愛と自由があったら、それに反するものは受け入れられません。自由の国アメリカから見ると、人権、つまり自由を侵害する国や組織は敵です。 これに対して、中心的思想がない(または中心的思想が「無」である)ならば、なんでも受け入れられます。いやいや、無の反対は有なので、中心が無だったら、あらゆる「有」は受け入れられないことになってしまうではないか。そうお思いの方もおられるかもしれませんが、そうではありません。すべてのものごとを「無」として理解しよう、というのが思想の中心なので、すべてのものごとを、敵対せずに受け入れられる、ということなのです。 つまり、あらゆるものごとを無限に包容し抱擁する。 丸山真男は、西欧化の進む戦後日本にあって、無限抱擁性や無自覚的雑居性という言葉を、どちらかというと日本人の問題点として挙げました。つまり、日本人は何でもかんでも無限に抱擁するかのように受け入れ、そのまま無自覚に雑居させようとする。もっと、近代の西洋人が行うように、真偽や正誤を明確に判断し、論理的に採否を判断すべきだ。もっと日本人は近代西洋流に合理的になるべきだ。丸山の『日本の思想』(岩波新書、1961年)からは、そのような丸山の考えが読み取れます。