やってみたければ素直にやり技術者から事業家へ ルネサンス・斎藤敏一会長
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年12月16日号では、前号に引き続きルネサンス・斎藤敏一会長が登場し、「源流」である仙台市の連坊小路を訪れた。 【写真】ルネサンス・斎藤敏一会長はこちら * * * 「やってみたければ、素直にやる」──それは、小学校へいく前から、始まった。 仙台市の東寄りにある若林区の連坊小路は、寺が多く、自宅は参道の一つに面していた。仙台国税局勤めで堅物の父とは性格が違い、いつも楽しく遊んでいたい子どもで、雪が降った日には下駄に竹をつけた「下駄スキー」で坂道を滑り下りる。春になれば、裁縫用に糸を巻いた車輪型のもので、走るおもちゃもつくる。楽しむためのアイデアが、次々と出た。 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 10月半ば、10代を迎えるまでいた連坊小路を、連載の企画で一緒に訪ねた。斎藤敏一さんのビジネスパーソンとしての『源流』となった「やってみたければ、素直にやる」が始まった地で、いま市営地下鉄が走り、連坊駅が近くにあった。 大通り沿いの県立仙台一高の向かいの路地を入ると、アパートや戸建ての家がぎっしりと並ぶ。ここに、1955年7月に父の転勤で県南の大河原町へ引っ越すまでいた。当時は建物もまばらで、両親と弟が2人の5人家族だった。 ■下駄スキーで滑りドッジボールやった坂は残っていた 下駄スキーで滑った坂は、残っていた。冬以外は、ドッジボールもやった。「思い出しました。工作が得意で、自宅にあった日用品とゴムで飛行機もつくって、飛ばしました」。大事な宝物をみつけたような表情になり、そう笑った。 大河原町では、中学校へかけてラジオを組み立てる。詳しい級友がいて、教えてくれた。初めは鉱石ラジオで、真空管を4本並べた「並4」と呼ぶタイプに挑戦し、さらに5本使う「5球スーパー」まで進んだ。必要な部品は、電車に約1時間乗って仙台までいき、買ってきた。