震災「語り部」担う親子 体験だけでなく「心の引き継ぎ」も大事
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
2024年は、元日に能登半島地震が発生しました。また、1月17日で阪神・淡路大震災から丸29年となります。震災を知る皆さんも年齢を重ね、いまでは震災体験の継承が1つの課題となっています。 そこで今回は、2代にわたって阪神・淡路大震災の「語り部」を務める親子をご紹介します。 兵庫県・淡路島にある「北淡震災記念公園」の総支配人で、震災の語り部を務める、米山正幸さん・57歳。当時はお父様と北淡町……現在の淡路市で和菓子の製造機械をつくる鉄工場を営む一方、町の若手として消防団にも入っていました。 その時期の米山さんは、2ヵ月ほど前にお嬢さんの未来(みく)さんが生まれたばかり。親子3人、川の字で寝ていたところを「ドーン」という巨大な音と共に地震が襲いました。すぐに家族を毛布1つで避難所の学校に避難させ、米山さん自身は近所の家に次から次へと声をかけていったそうです。
「1月17日の午前中は、泣いてばかりでした」 米山さんは倒れた家から人々を助け出すと、声が聞こえれば嬉しくて泣き、残念ながら息をしていないと悲しくて涙が止まりませんでした。それでも当時の北淡町では、約300人が生き埋めになったものの、近所の助け合いで震災当日のうちに行方不明者がゼロになったそうです。 震災から10年後、北淡震災記念公園に勤めるようになっていた米山さんに、思わぬ依頼が舞い込みます。 「いまの語り部さんは震災で助けられた人と、見ていた人しかおれへん。助けた側として、憶えていることをまとめて読むだけでもいいから、語り部をしてくれ」 鉄工場の職人だった米山さんは、人前でしゃべることが大の苦手でした。でも、しぶしぶ引き受けて熊本から修学旅行に来た中学生を前に体験談を読んでいると、あちこちからすすり泣きが聞こえて「ハッ」としたそうです。 「こんなん読んでるだけじゃ恥ずかしいわ。極めたる!」