異色の元ロッテ、メッツ小宮山悟氏の早大次期監督就任はなぜ実現したのか?
小宮山氏は、3年前に他界された恩師、石井連藏氏の話をした。 芝浦工大柏高校時代にテレビで見た早大野球部に憧れて2浪してまで入学した。 「箸にも棒にもかからなかった僕を当時の飯田修監督が、投げ方が綺麗だったことと、そこそこのボールを投げられたことで1軍に抜擢してもらえた」。3年になると、石井連藏氏が、第14代監督として復帰。4年では主将を命じられ、石井氏と過ごす時間が多くなった。優勝はできなかったが、小宮山氏は、早大で52試合に投げ20勝10敗、防御率1.85、165奪三振の成績を残している。 1989年にロッテのドラフト1位に指名され、プロ入りしてからも、石井氏との師弟関係は続き、2002年オフにメッツを解雇され、2003年の1年間、異例の野球浪人をしたときも、「時間と経済的な余裕があるうちに早稲田で学び直せ」との助言を受けて、石井氏が、所沢に設立した早大のスポーツ科学研究科へ通うことになった。1年後に、バレンタイン監督率いるロッテに再入団することになるが、異例の“学生プロ野球選手”として、週に一度、研究室へ通い「人生のプラスになる時間を過ごした」。2009年に小宮山氏は、引退を決意、石井氏に挨拶にいくと、「早稲田に帰って来い」との言葉を投げかけられ「心に刺さった」という。 その後、プロからも指導者の話がいくつか打診されたが、「プロより早稲田のユニホームが重たいものになっていた」と、受諾せず、「(石井氏から)力を貸せと言われたとき、いつでも貸せる準備を整えて待った」。 石井氏は、3年前に天国へ旅立ったが、小宮山氏の母校愛が消えることはなかった。 「石井さんに教えていただいたものを今の学生に授けられるかわからないが、名も無い高校生がアメリカにまで行って野球ができるようになったのは、いかに自分を律して、強い思いでことにあたれるか、ということ。思いの強い連中を育てたい」 小宮山氏の語り口調が熱くなった。9月27日の石井氏の命日には墓前へ報告するという。