広島じゃけん《お好み焼き》(2)焼け野原屋台が原点 “広島焼き”誕生物語
“うまいもん“の宝庫、広島。なかでも、“お好み焼き”はその代表格だ。地元のソウルフードの地位にとどまらず、今では全国で広く支持されるようになった。 広島のお好み焼きは、いつどのようにして誕生し、どのように広まっていったのか。その歴史や足取りをたどりながら、魅力を紹介していく。 ----------
井畝満夫(いせ みつお)さん(84)愛称“みっちゃん” 昭和7年生まれ。5歳の時に満州に移り住み、終戦後、両親と共に帰国した当時、まだ14歳だった。 5年後の昭和25年、両親が『美笠屋』の名で広島市の中央部に屋台を出す。しかしすぐに病弱だった父に代わり、当時まだ19歳だった井畝満夫が店を切り盛りするようになる。市内中心部は原爆で焼け野原になった復興の最中のこと。昼は百米道路(平和大通り)の建設工事など街の為に働き、夕方からは屋台でお好み焼きを売る、そんな時代だった。 2年後の昭和27年頃。文字通り身を粉にして働く日々のなか、アイデアマンだった“みっちゃん”はまず、サラサラだったウスターソースをなんとかしよう、と思いつく。父親とソース工場に行き、ウスターソースを作る過程で破棄される、とろみのある沈殿物を見て閃くと、片栗粉を使ってとろみを出した初期の『お好みソース』を作らせた。それは具材に染み込まず、見た目もトロリと美味しそうな独特のソースだ。 更に改革は続く。移動する屋台では水が貴重で、皿や箸を洗うにも大量に使うし、手間も掛かる。ならば、という訳で鉄のヘラを使って鉄板の上で食べて貰うようにした。これなら皿も、当時高価だった割り箸も不要だ。そして鉄板の上で、すぐ熱くなる鉄のヘラには、持ち手に木を取り付けた。これは当時の屋台仲間にも好評で、皆がこぞって欲しがった。
そして昭和30年頃、みっちゃんは当時まだ24歳の食べ盛り。薄いお好み焼きでは、お腹いっぱいにならず、焼きそばとお好み焼きを同時に食べていて、ふと思いつく。お好み焼きに焼きそばを乗せて食べたら美味しい、しかもボリューム満点で、お腹いっぱいになる!! そしてとうとう、今の広島焼きの原型ともいえる丸いかたち=(それまでは具が少なく2つ折りの半月状だった)のお好み焼きが出来上がる。また、他にも値動きの大きいネギやキャベツを少なくするために、モヤシを入れたり、上部以外が熱くならないお好み焼き用の鉄板の考案(特許取得済み)も彼の功績だという。