生物学者が歳をとってわかった「人生の意味」、人間にとって「自我」こそ唯一無二のものである
そんなファーブルの年齢を超えた今、71歳で子どもをつくることの意味がわかるようになったかというと、やはりよくわからない。肉体的な老化については身に染みてわかるようになったが、それ以外には、歳を取ったからといってわかるようになることはあまりない。 だが、そんななかでもよくわかったのが「人生に生きる意味なんかない」ということだった。若い頃は、頭に余力があって余計なことを考えることもできるから「人生の意味」などということも考えたくなるが、心を虚しくして見てみれば、人生に意味などないのは当然のことのように感じる。
そもそも悠久の宇宙の歴史から見たときに、人類の生存や繁殖などはあまりにもちっぽけで、そのこと自体からしても何か意味があるようには思えない。 「人生に生きる意味などない」ということがしみじみと腑に落ちてから、私は死ぬことがあまり怖くなくなった。私は若い頃から、完膚なきまでの無神論者で宗教に魅力を感じたことは一度もない。宗教を信じる人というは、結局のところ、死ぬのが怖いのだと思う。 人間と違って動物は苦痛から逃れたいとは思うだろうが、死ぬことに恐怖を感じたりはしないだろう。動物は脳の構造からしても、人間のように確固たる自我を有していないので、そのような哲学的思考をすることはまずあり得ない。
人間が死を恐れるのは、自我がなくなるからだ。現在の脳科学によると、自我は前頭連合野に局在するらしい。この部分は他の動物と比べたときに、人間がいちばんよく発達している。 個人の内的な感覚としては、自我は自分以外の全存在と拮抗する唯一無二の実在である。死ぬということは、自分以外の存在物のほとんどが無傷のまま保たれるのに、自分にとって唯一無二の自我が喪失することを意味する。 つまり死を怖がるのは、自我の喪失を恐れているからであり、生きている人間にとっての自我とは、それほど大切なものだとも言える。