高校サッカー選手権がビッグイベントになったきっかけ 人気が一気に高まった48年前のスリリングな決勝戦
【1976年までは関西で開催】 高校選手権がこれほどのビッグイベントになったきっかけのひとつが、1976(昭和51)年度の第55回大会だった(開催は1977年1月)。それまで、ずっと関西で開催されていたこの大会が初めて首都圏で開催され、旧・国立競技場が決勝の舞台となった。 東京在住の僕にとって、それまでは「テレビで楽しむ大会」だったのが、この年から実際に真冬のスタジアムに足を運んで観戦する大会となったわけだ。 今年で103回目を迎えたこの大会。第1回が開かれたのは「大日本蹴球協会」が発足するより前の1918年、大正7年1月のこと。大阪毎日新聞社主催で開かれた日本フートボール大会だった。 大阪の豊中で行なわれたこの大会では、ア式(サッカー)とラ式(ラグビー)が同時に行なわれ(「ラ式」の大会は現在開催中の第104回全国高校ラグビーの前身)、「ア式」では兵庫の御影師範が優勝している(御影師範は第7回大会まで7連覇)。 当時の日本では新聞社同士の部数獲得競争が激化しており、他紙との差別化のために各新聞社はスポーツ報道に力を入れ、自ら大会を主催した。そして、1915年に大阪朝日新聞社が全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園の前身)を開催して成功したのを見て、ライバルの大阪毎日がフートボール大会を開いたのだ。 そして、第2次世界大戦を挟んで紆余曲折を経ながらも、高校サッカーは毎日新聞主催で、関西で開催されてきた。 ところが、1960年代に毎日が撤退。規模縮小を余儀なくされていた。そんななか、1970年に日本テレビ系列による中継が始まったことで高校選手権は大きな注目を集めるようになった。浦和西高校のFW西野朗(元日本代表監督)のようなスター選手も登場。関西最後の開催となった1975年度大会では浦和南の田嶋幸三(前JFA会長)が活躍した。
【首都圏開催最初の大会決勝、浦和南vs静岡学園のインパクト】 そしてさらなる規模拡大を目指して、この大会は首都圏で開催されることになった。もちろん、関西の関係者からは反発もあったが、首都圏開催の最初の第55回大会は大成功に終わった。 浦和南の2連覇という話題に加えて、静岡学園がこれまでの日本のサッカーとは異質の、個人技を生かしたサッカーで旋風を巻き起こしたのだ。 それまでの日本では「日本人はテクニックでは外国勢に劣るから、その分を走ることでカバーすべきだ」と考えられていた。高校サッカーでも「蹴って走るサッカー」が主流だった。 そうしたなかで、静岡学園を率いる井田勝通監督はブラジルスタイルを志向。ドリブルで勝負することを徹底させた。ゆっくりとボールを持ってドリブルで崩してゆくサッカーは、新鮮そのものだった。そして、初出場の静岡学園はあれよあれよという間に決勝に進出。2連覇を狙う浦和南と対戦した。 そして、決勝戦では浦和南が1年生の水沼貴史(元日本代表)の活躍などで3点を先行し、それを静岡学園が追う展開となり、終わってみれば5対4というスコアで浦和南が勝利。このスリリングな決勝戦によって、高校サッカー人気は一段と高まったのだ。 その後は、開催地東京の代表である帝京が一時代を築き、清水東や清水商業、静岡学園をはじめとする静岡勢と競り合うことで、高校サッカー人気はますます高まっていったのである。 連載一覧>>
後藤健生●文 text by Goto Takeo