もしあの時に戻れたら…歌人・穂村弘が話題書『迷子手帳』で明かす、今も忘れられない「失敗」
---------- 「もしもタイムマシンであの時に戻れたら、今度は…」。短歌ブームを生み出した人気歌人・穂村弘が、なぜか何度も思い出しては後悔している「或る失敗」とは? いつもの日常を「迷子」の目でみつめる穂村さんのユーモア漂うエピソードを、話題のエッセイ集『迷子手帳』(講談社)からお届けします。 ----------
なぜか何度も思い出してしまう…
何かの拍子にふと思い出しては、ああ、あれは失敗だったなあ、と反芻してしまうことがある。今までの人生の中で失敗なんて無数にあるはずなのに、どうしてその時のそれだけが何度も思い返されるのだろう。 あれは今から十五年ほど前のこと。私は或るイベントに参加していた。たくさんの出演者が一人につき十分ほどの持ち時間で、次々に登壇して自作の短歌や詩を朗読してゆくのだ。 自分の出番までまだ間があったので、私は客席に座って舞台を眺めていた。朗読が上手な人、下手な人、上手だけど感動しない人、下手だけど面白い人、全員がパフォーマンスの素人ではあったけど、くるくると演者が入れ替わってゆくので飽きることがない。 やがて、同じ同人誌の後輩にあたるKさんが登場した。彼女の朗読は素晴らしかった。ぽつりぽつりと呟くような声なのに、不思議なほど心に染みこんでくる。鳥肌が立つような思いで味わった。彼女の最後の言葉が空中に消えた瞬間、会場が鳴った。拍手と歓声が爆発したのだ。私も夢中で指笛を鳴らす。指笛なんて数十年ぶりで、吹けることも忘れかけていたのに。 イベント終了後の打ち上げで、Kさんと話す機会があった。 ほ「朗読、凄かったね」 K「ありがとうございます」 ほ「ほんとに素晴らしかった。拍手と歓声が鳴り止まなかったもんね」 K「びっくりしました」 ほ「会場中が興奮してた」 K「指笛が聞こえて……」 ほ「ああ」 K「私、あれを吹いてくれた人を探すつもりです」 ほ「えっ」 K「どんなに時間がかかっても」 彼女はどこか夢見るような表情をしていた。思わず、言葉が口から出てしまった。 ほ「あ、あれ、僕」 K「えっ? ほむらさん?」 ほ「うん。あっさり見つかっちゃったね」 K「ああ」 その時のKさんの様子が忘れられない。そこには抑えようとしても抑えきれない落胆の気配があったからだ。 一方、私は私で不満だった。なんだ、僕じゃ駄目ってことなの、せっかく吹いたのに、と思って。 でも、後から気がついて考え直した。あれはたぶん、私だから駄目とか、そういうこととは違ったんだろう。自分の朗読に対して指笛を吹いてくれた未知の誰か。「どんなに時間がかかっても」探したいその人とは、実は自分自身の未来の可能性そのものだったんじゃないか。でも、私の現実的な言葉が、その夢を壊してしまったのだ。 後年、別の友人にその時の話をしたことがある。 友「でも、実際に『その人』はほむらさんだったんだから仕方ないよ」 うん。それはその通り。でも、でもなあ。どうしてなんだろう。やっぱり、あれは失敗だった気がしてならないのだ。「どんなに時間がかかっても」という気持ち、わかるからなあ。 もしもタイムマシンであの時に戻れたら、今度は名乗らないつもりだ。そして、Kさんの夢見るような表情をただ見ていよう。
穂村 弘(歌人)